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市民と歩む幸せ マツダスタジアム 被爆70年の思い

 工夫を凝らした座席を新設するなど、年々進化する広島東洋カープの本拠地マツダスタジアム(広島市南区)。ことしのキーワードは「被爆70年」である。原爆投下後の広島で、市民は球団に希望を託した。互いに支え合って歩んだ復興の道のりを次代に伝える仕掛けが、球場周辺に誕生している。(増田泉子)

 JRの線路そばにこの春完成した屋内練習場。大型スロープ沿いの壁面に、カープの歴史をたどる「一筆書き」が姿を現した。

 1949年、「カープ廣島野球倶楽部」の看板を背にした初代監督石本秀一さん、51年のたる募金、75年、初優勝を決め男泣きする山本浩二選手、2008年、旧広島市民球場ラストイヤー…。中国新聞社の写真などを基にしたイラスト44枚が、約63メートルにわたって1本の赤い糸で紡がれる。

 イラストの最後、15年は「マツダスタジアムに『広島カープ誕生物語』のモニュメント建立」。故中沢啓治さんの漫画を題材に、カープ帽をかぶった子どもたちが土管に腰掛けた像を3月末、屋内練習場東に作った。周囲には被爆した瓦やれんがを置き、カンナを植えた。夏には大きな赤い花が開くはずだ。

 松田元オーナーは「広島に原爆を落とされ、カープが生まれ、長く苦しい時期を経て、75年に優勝して経営も安定した。原爆ドームと隣り合う旧球場からこっちへ移ったから、歴史を振り返る材料が欲しかった」と意図を語る。

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 球場内のスポーツバーは、オープン以来の本格的な衣替えをした。球団創設から現在までの写真約150点を展示している。担当した球団職員の森下雄介さん(28)は「カープは街や市民とともに歩んできたという視点で、路面電車や応援の風景なども選んだ」と話す。

 球団が原爆、平和を意識して広島での存在意義を発信し始めたのは、スタジアムが誕生した09年に始めたピースナイターから。旧球場はドームと向き合い、復興の象徴であり市民の力の源だった。「器」の移転に伴い、「『精神』も引き継ごう」と企画した。

 きっかけはその前年、山形県出身の栗原健太選手が書いたブログだった。広島の女性と結婚し、8月6日に初めて黙とうした―。

 カープは1958年を最後に、この日は本拠地で試合をしていなかった。選手は、世界の人が集い、街ごと祈りに包まれる様子に触れる機会も少なかった。松田オーナーは「よそで野球ばっかりやっとった若い子が、広島のことを知らんでも無理もないと、気付かされた」と思い起こす。

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 ピースナイターを始めた09年から球団は毎年8月6日に、スタジアムにキャンドルをともすようになった。地元の大学生による作業には、2軍の新人選手も加わる。ファン、地域に加え選手や職員にも、「野球ができる幸せ」を伝える試みである。

 11年には8月6日のホームゲームを53年ぶりに開催した。当時、セレモニーを担当した森下さんは、企画を練る過程で原爆養護老人ホームを訪ねた。「野球をしてほしい人も、してほしくない人もいた。被爆者の率直な言葉を聞いたのは財産になっている」と思い返す。

 マツダスタジアムは観客を飽きさせないよう、毎年進化を続ける。松田オーナーは「地域にずっと大切にしてもらったことに感謝している。手を携えて歩んだ歴史を共有し、70年続いた一本の線をこれから先も延ばしていきたい」と語る。

球団史 学ぶには

 カープは他の球団とは生い立ちがまったく異なる。広島でなければ生まれなかった特別な歴史を学ぶには、モニュメントのモデルとなった中沢啓治さんの漫画「広島カープ誕生物語」(垣内出版)、重松清さんの小説「赤ヘル1975」(講談社)、選手名鑑や年表、戦績も網羅した「カープの歩み 1949―2011」(中国新聞社)などがある=写真。

(2015年5月23日セレクト掲載)

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