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Peace Seeds ヒロシマの10代がまく種(第10号) 学徒動員の日々 

 学徒動員という言葉をご存じですか。第2次世界大戦末期、戦況(せんきょう)が悪化してくると、多くの人々が兵士として召集(しょうしゅう)されたため、労働力が不足してきました。それを補うため、全国的に旧制中学校や高等女学校の生徒など、10代の子どもたちが軍需(ぐんじゅ)工場や建物疎開(そかい)の現場、農村などへ派遣(はけん)されたのが学徒動員です。

 勉強もできず、いつも空腹で、空襲(くうしゅう)におびえながら大人と同じように働いた子どもたち。動員学徒の中には、広島市内で作業をしていて原爆(げんばく)の犠牲になった人も数多くいます。動員中どのような思いで働いていたのか、何が楽しみだったのか、そしてつらかったことや不安を感じたことは―。

 学徒動員を経験し、被爆(ひばく)した3人に日常生活の様子を取材し、当時の子どもたちの思いに迫(せま)ってみました。同じ世代である現在の中高生の生活とあまりにも違(ちが)う毎日。戦争というものの厳しさをより実感するとともに、私たちが今、学校や家庭で過ごしている平和な日常がいかに大切であるかも理解できました。

<ピース・シーズ>
 平和や命の大切さをいろんな視点から捉(とら)え、広げていく「種」が「ピース・シーズ」です。世界中に笑顔の花をたくさん咲(さ)かせるため、小学6年から高校3年までの49人が、自らテーマを考え、取材し、執筆(しっぴつ)しています。

紙面イメージはこちら

「勉強」を奪われ 働いた

将来に希望はなかった。終戦と聞き、ほっとした

夜勤12時間 上司の監視

 動員先での作業は大人並みでした。原さんは中国配電大洲(おおず)製作所(現中国電機製造、南区)で旋盤(せんばん)を使って鉄棒をボルトに加工する作業をしていました。毎日午後6時から翌朝6時まで12時間の夜勤でした。

 寺前さんは広島中央電話局(中区)で毎日8時間、電話の交換(こうかん)業務。上司が監視(かんし)していて、無駄話(むだばなし)をすると厳しく叱(しか)られたそうです。小方さんは午前中、建物疎開(そかい)の後片付けをし、午後は校庭でわら人形を相手に竹やり訓練をしたり、農家の手伝いに行ったりしました。

 そんな作業も「お国のために役に立っているんだ」(寺前さん)と考えて、あまり苦にはならなかったといいます。でも、寺前さんは「空襲(くうしゅう)警報が度々あって熟睡(じゅくすい)できなかった」、小方さんは「1カ月に1週間分の米しか配給がなかったからいつもおなかがぺこぺこだった」と振(ふ)り返(かえ)ります。

 勉強は学校でも自宅でも「全くできなかった」と3人は口をそろえます。「業務の合間に自分で地名を勉強するぐらいだった。勉強したかったけど時間がなかった」と寺前さん。小方さんは明かりが漏(も)れて敵機に見つからないよう布団に潜(もぐ)り、懐中(かいちゅう)電灯で本を読んだことがあると話します。「戦争に勝てば勉強できると信じていた」そうです。

 そんな時代に将来の夢はあったのでしょうか。原さんは「兵隊になることが夢だった。でも、日本は負けだと思っていたので、お先は真っ暗だった」と言います。寺前さんは「戦争に勝つために頑張(がんば)らなくては」としか考えられなかったそうです。

寺前妙子さん(84)

当時15歳、進徳高等女学校(現進徳女子高)3年

 戦争に勝つことだけを信じて頑張(がんば)っていました。電話局で仕事中に被爆(ひばく)し左目が飛び出してなくなったことさえ気付かず、川へ飛(と)び込(こ)んで逃(に)げました。今、平和な時代の中で、あの悲惨(ひさん)な時代が忘れられているような気がして、被爆体験を語る活動を続けています。(広島市安佐南区)

原政信さん(83)

当時13歳、広島市立第一工業学校(現県立広島工高)2年

 戦時中、父が病気で死んだのですが、病死したことをばかにされる異常な時代でした。もう日本は負けだと思っていて、将来に全く希望がなかったので、終戦と聞いてほっとしました。若い世代には武力のない世界になるよう、考えてほしいですね。(中区)

小方澄子さん(83)

当時13歳、広島女学院高等女学校(現広島女学院高)2年

 帰国した米国人の先生の持ち物を校庭で焼く様子を生徒が見せられたのを覚えています。校章まで他の金属と一緒(いっしょ)に供出させられ、日本は勝てそうにないと思いました。でも、口には出せません。毎日、建物疎開(そかい)に通いましたがいつも空腹。すごく苦しい時代でした。(廿日市市)

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そして私たちは

 学徒動員経験者3人を取材したジュニアライター7人が、同世代である今の自分たちの生活と置き換えて考えました。

悲しみや優しい心を忘れず、平和守りたい
自由がなく、つらかった戦時中。多くのことを考えた

 寺前さんはケーキを見ると悲しくなるそうです。こんなにも甘くおいしいものを一口でも、亡くなった家族や友だちに食べさせてあげたかったと思うからだそうです。寺前さんの悲しみや優しい心を忘れず、今の平和を守っていきたいです。(川岸言織、12歳)

 小方さんは、学徒動員から帰宅してもご飯があるとは限らず、栄養失調になることもあったそうです。勉強時間もありませんでした。それでも、勝つまではと我慢(がまん)していたことが、食べ物だって十分にある今の私たちにはとても考えられません。(平田佳子、13歳)

 原さんは若い世代に、今まで戦争がなく平和に生きてきた背景にたくさんの人々の犠(ぎ)牲(せい)や苦労があったことを忘れてはいけないと言われました。戦争のない世の中を実現するため、僕(ぼく)たちみんなが自分にできることを考えなくてはと思いました。(岩田央、14歳)

 戦争中は勝つことが第一だったので、将来の夢など考えたことがなかった―と、小方さんは話しました。自由がなく、つらかった戦時中の生活。平和な世界で生きている現在の私たち。今回の取材で、たくさんのことを考えさせられました。(小林薫、15歳)

 原さんの話を聞いて、今の生活を当然のように送っている自分に気付きました。70年間戦争がなかったことに感謝しつつ、子どもたちが勉強の時間を取り上げられて働くような世の中に二度とならないよう、心掛けていこうと決意しました。(山田千秋、15歳)

 学徒動員が決まった時、国のために働けるのがうれしかったという寺前さんの言葉に驚(おどろ)きました。戦地に赴く兵士の見送りや負傷兵の慰問にも行き、勉強ができず、食糧が足りないため川でシジミ採り…。生活の厳しさがよく分かりました。(森本芽依、17歳)

 私たちと同年代のころ、小方さんたちはまともに勉強できず、国のために夢も学校生活の思い出も捨てて働きました。進路や夢で悩(なや)む今の自分の環境(かんきょう)が恵(めぐ)まれていることや、それが当たり前に与(あた)えられているのではないことを知らされました。(岡田春海、16歳)

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被爆し7200人が死亡

 広島平和記念公園(広島市中区)の一角、原爆(げんばく)ドームのそばに動員学徒慰霊塔(いれいとう)があります。戦後、遺族の募金(ぼきん)で建てられました。現在の中高生と同じ10代の人々が勤労奉仕(ほうし)をしていて被爆し、約7200人も亡くなったのです。

 学徒動員は戦況(せんきょう)が悪化した1944年、本格的になりました。授業は中止され軍需(ぐんじゅ)工場や建物疎開(そかい)の現場、農村などさまざまな職場に動員されました。大人が次々に召集(しょうしゅう)されたため、その補充(ほじゅう)要員だったのです。学校が工場になったケースもあります。動員された学徒の総数は全国で340万人といわれています。(河野新大、17歳)

(2015年5月28日朝刊掲載)

編集後記

 被爆者の方に取材をするのは二回目で、まだ取材に慣れてはいないし、せっかくお話をしてくださる方々に失礼があってはいけないと思うと、とても緊張します。けれど、少しでも笑顔を見せていただくと、心が落ち着きます。お話を聞かせてくれる方々は、とても優しくて、とても強い方々なんだと思いました(川岸言織)。

 戦争でたくさんの命が奪われたことを尊い教訓として、日本は二度と戦争を起こさないよう努めてきたのだと思います。でも、最近のニュースを見ると、再び戦争に巻き込まれるのではと、不安です。今回の取材で、戦争になれば男性は戦争に出され、学生は動員され、生活面でも不自由なことが多くなるのを実感しました(平田佳)。


 2人のお話を聞いて、被爆者が高齢化していく中、その思いを受け継いでいかなければとあらためて思いました。罪のない人達を戦争に巻き込むことが、二度とないようにするために、私はこれからもジュニアライターの活動を続けていきます(山田千)。

 私は初めての取材だったので、とても緊張しました。学徒動員のこともあまり詳しくなかったので不安でした。しかし、小方さんが一から教えてくださったので、とても分かりやすかったです。この取材を通して、改めて平和な世の中のありがたさ学びました。これからも平和について考え続けていきたいです(小林)。

 学徒動員について今まで話を聞く機会が少なかったので、同じ年代の子供が過酷な労働をしていたことを想像できませんでした。しかし、詳しい話を聞くうちに、自分と比較して考えることができ、今の環境が恵まれていることがわかりました。その環境が当たり前と感じていましたが、これからは感謝して過ごしていこうと思いました(岡田春)。

 今回の取材を通して、今の私たちの生活がとても恵まれているということが分かりました。何よりも、明日の心配をせず、安心して日々を送れることが幸せだと気付きました。また、今の若い世代の人は、遊びや勉強をしたくてもできなかった人達の分まで、しっかり生きる必要があるのだと思いました。(森本)。

 学校は子どもたちが次の時代を担うため勉強をする大切な場所です。それが、大人たちの勝手に始めた戦争のせいで工場になったり、子どもたちが勉強の代わりに労働をさせられたりしたことに、憤りのようなものを感じました。当時の子どもたちができなかった勉強、かなえることのできなかった夢を、同じ世代の僕は成し遂げようと誓いました(河野)。

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