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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 柳川良子さん―孫の言葉契機 体験語る

柳川良子さん(85)=廿日市市

今も消えない罪悪感。たまらない心の傷

 「おばあちゃん、なんで大人は戦争したんね。どうしてあの時、戦争したら駄目って言わんかったん」。柳川(旧姓中村)良子さんは20年以上前、小学生の孫から言われたひと言を今も覚えています。原爆に遭(あ)いながら多くの人の助けで生き延びた半生。「体験を伝える責任があるのでは」と自問するきっかけになりました。1992年から、主に修学旅行生たちに被爆体験を語っています。

 当時は、広島女子高等師範学校付属山中高等女学校の4年生、16歳でした。あの日は、爆心地から約1・7キロの同校(現広島市中区千田町)にいました。爆撃機のプロペラ音が聞こえた後、太陽が裂(さ)けたのではないかと思うほどの閃光(せんこう)とごう音に襲われました。校舎はばらばらに壊れ、気を失いました。

 意識が戻(もど)ると辺りは真っ暗。建物の下敷(したじ)きになっていたのです。お国のために命をささげるよう教育を受け、死ぬ覚悟はできていたつもりでした。でもこの時は「死にたくない」と強く思ったそうです。

 「先生ーっ」と叫(さけ)び、差し込む光の方へ体をよじらせました。声を聞いた先生に引っ張り出してもらいました。そこは、つぶれた校舎の2階の屋根でした。先生も血だらけ。背中には木片が刺(さ)さっていました。

 脱出して、右手の指先が地面に着きそうになっているのに気付きました。鎖骨(さこつ)が折れて肩(かた)がみぞおち辺りまで下がっていたのです。顔の左側から首筋にかけて、ガラスの破片が刺さっていました。

 簡単な手当てをしてもらい、横川(現西区)にあった自宅へと歩き始めました。学校のある千田町に爆弾が落ちたとばかり思っていたのですが、「全市が火の海」と知り、がくぜんとしました。

 爆心地に近い紙屋町(現中区)の辺りでは、立ったままの死体を幾つも見たそうです。黒焦(こ)げで、目を見開き、舌を出していました。息のある兵隊から「水をくれや…」と声を掛けられましたが、何もできず、そのまま立ち去りました。「罪悪感は今も消えない。たまらない心の傷」と声を詰(つ)まらせます。

 友人宅に泊めてもらい、翌朝、横川で3歳上の兄と再会。緊急避難先と決めていた父の生家がある地御前村(現廿日市市)を目指しました。兄と会えて安心したのか、全身の力が抜け、道中はほとんど兄に抱えられていました。

 到着後、親戚が、血のりで体に張り付いたぼろぼろの制服をはさみで切り、体に刺さったガラスを取り除いてくれました。それから2、3日間は死んだように眠り続けたといいます。

 母と弟もたどり着きました。しかし、軍の呼び出しで6日早朝に出掛けた父は今も行方が分からないままです。

 終戦から2年後に結婚しました。夫の諫(いさむ)さんは原爆投下当時は陸軍に所属。広島市内で山積みになっていた死体を運んだり焼いたりしていた、と親戚から聞きました。被爆体験を語る妻の活動を見守りつつ、自身のことは一度も話さないまま、7年前に84歳で亡くなりました。

 「もともと口数の少ない人。あまりにむごい体験で、とても言葉にする気になれなかったのでは」と柳川さんは推察します。「記憶を胸にしまったまま亡くなった人は大勢いるはず。そんな人たちの思いもくんで平和な世界を実現してほしいと、若い世代に伝えていきたい」。自らに言い聞かせるように話します。(長部剛)



私たち10代の感想

平和のバトン受け取る

 柳川さんは、被爆体験を伝えた修学旅行生から「バトンを受けました」と言われたと話しました。その表情が印象的でした。次の世代に記憶をつなげたいという思いが伝わってきたからです。原爆の悲惨(ひさん)な体験は二度と繰(く)り返してはなりません。私も柳川さんから「平和を発信し続けるというバトン」を確かに受け取りました。(中1目黒美貴)

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 取材の間、柳川さんは大半はほほ笑んでいましたが、時折こわばった表情を見せました。きっと思い出すのもつらかったのだと感じました。それでも「被爆の状況(じょうきょう)を想像し、繰り返さないために自分に何ができるか考えてほしい」と話されました。私は、被爆者の気持ちを受け止め、発信していこうと思います。(中2藤井志穂)

生き抜いた強さに驚く

 被爆時、柳川さんは私と同じ16歳でした。「この世の光景ではない。生き地獄(じごく)のようだった」と表現されました。私が同じ状況だったら、生き続けられたかどうか、想像さえできません。「何の感情もわかなかった」というほど過酷(かこく)な体験。それを乗り越え、今日まで生きてきた心の「強さ」に驚(おどろ)きます。(高1見崎麻梨菜)

(2015年5月25日朝刊掲載)

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