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被爆建物 重み次代へ 広島の歴清社 倉庫と煙突保存 数年かけ耐震工事

 金箔(きんぱく)や銀箔の壁紙を造る歴清社(広島市西区)は、本社工場にある被爆建物の倉庫と煙突の保存を決めた。今後、数年かけて耐震化する。中小企業だけに費用の負担は経営に重くのしかかる。それでも被爆70年の節目に、久永清治社長(64)は「家業の歴史の象徴。次世代の心の支えになるよう残したい」と決断した。(桑島美帆)

 1905年創業の歴清社は、爆心地から2・2キロ地点の西区三篠町に今もある。35年に5階建てに増築した本社工場は、原爆で焼失。化学薬品を入れていた1階の倉庫と、43年に建てた高さ約20メートルの煙突だけが残った。両方ともコンクリートなどで造られていた。

 前社長で叔父の洪(ひろし)会長(80)が振り返る。自らの父で清治社長の祖父である故清次郎さんは被爆当時の社長を務め、爆風でガラスの破片が全身に突き刺さる重傷を負った。終戦の翌年から、バラックの屋根を覆う防水紙の製造を始めた。

 金銀箔の壁紙づくりを再開したのは50年代。59年に被爆した倉庫と煙突を取り囲む形で現在の本社工場を建てた。所々に爆風の痕跡が残る倉庫は、材料や道具の置き場として今も使っている。焼け野原の中で近所の人が避難の目印にしたという煙突は、壁紙を乾かす時に出る熱を逃がす役割を果たしている。

 建物が古くなる中、保存か建て替えかを決めるため、清治社長は昨年末、耐震構造の調査を業者に依頼した。倉庫や工場の柱とはりを鉄で補強し、煙突に炭素繊維を巻けば震度7の地震にも耐えられることが分かった。

 ただ、工事費は工場全体で数千万円に上るとみられる。従業員26人、売上高約4億円の会社にとって負担は大きい。壁紙の販売は欧米やアジアの高級ホテルなどに向けて伸びており、売り上げに応じて少しずつ工事を進める方針だ。

 清治社長は「祖父たちが原爆に遭いながら、頑張ってきた上に今がある。建物を残し、今後の経営者や社員の精神的な基盤にしたい」と強調。将来、6代目社長を継ぐ予定の長男の朋幸専務(34)も「歴史を知るたびに、守んなきゃという思いが強まる。なるべく手を加えずに残していく」と父の思いを受け止める。

被爆建物
 爆心地から5キロ圏内で被爆した建物を広島市が台帳で管理する。現在は86施設が残り、神社仏閣や企業など民間所有は66施設。歴清社の場合、倉庫はリストに入っているが、被爆した煙突は「建物」ではないとして含まれていない。被爆建物の補修や耐震化には多額の費用が掛かるため、取り壊されるケースが増えている。

(2015年5月27日朝刊掲載)

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