友に代わり被爆を語る 広島の本川小に戦後入学 松江の古沢さん 同級生の死や苦悩 心に刻む
15年6月3日
原爆投下間もない時期から広島市の爆心地近くで暮らした古沢知子さん(73)=松江市上乃木=が、当時の状況や親友の被爆体験を語る活動をしている。「被爆者ではないけれど、代わりに原爆の悲惨さと復興を伝えたい」と訴える。(西村萌)
古沢さんは原爆から2年後の1947年、父親の転勤で熊本県から現在の広島市中区十日市町2丁目に移り住んだ。翌年、本川小に入学。がれきの中の溶けた食器でままごと遊びをし、窓ガラスがなく床に穴が開いた校舎で授業を受けた。中学の時には「原爆の子の像」設置へ街頭募金に立ったことも。結婚のため27歳で広島を離れた。
2010年、同校から米国の教会に贈られた児童の絵が約60年ぶりに戻って同校に展示された。連絡を受け、自身が小学1年の時に運動会の鈴割り競技を描いた絵があるのを知った。
その頃、広島に住んで以来親友だった同級生の女性から、自分をかばった母親がやけどし、目の前で亡くなった話を初めて打ち明けられた。今まで明かさなかった苦しみを受け止め、代わりに証言することを決めた。
5月26日には、松江市上乃木の松徳学院高で昨年に続いて体験を証言した。2年生30人に「小学、中学の同級生も在学中に亡くなった」と語った。
7月25、26日に松江市の県民会館で県被爆二世の会が開く原爆展で、自身の作品を含めた絵約30枚を展示する。「憎しみと破壊の戦争からは何も生まれない。若い世代に平和の芽を育ててほしい」と話している。
(2015年6月2日朝刊掲載)
古沢さんは原爆から2年後の1947年、父親の転勤で熊本県から現在の広島市中区十日市町2丁目に移り住んだ。翌年、本川小に入学。がれきの中の溶けた食器でままごと遊びをし、窓ガラスがなく床に穴が開いた校舎で授業を受けた。中学の時には「原爆の子の像」設置へ街頭募金に立ったことも。結婚のため27歳で広島を離れた。
2010年、同校から米国の教会に贈られた児童の絵が約60年ぶりに戻って同校に展示された。連絡を受け、自身が小学1年の時に運動会の鈴割り競技を描いた絵があるのを知った。
その頃、広島に住んで以来親友だった同級生の女性から、自分をかばった母親がやけどし、目の前で亡くなった話を初めて打ち明けられた。今まで明かさなかった苦しみを受け止め、代わりに証言することを決めた。
5月26日には、松江市上乃木の松徳学院高で昨年に続いて体験を証言した。2年生30人に「小学、中学の同級生も在学中に亡くなった」と語った。
7月25、26日に松江市の県民会館で県被爆二世の会が開く原爆展で、自身の作品を含めた絵約30枚を展示する。「憎しみと破壊の戦争からは何も生まれない。若い世代に平和の芽を育ててほしい」と話している。
(2015年6月2日朝刊掲載)