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みこし行列 平和の証し 10月に復活 広島東照宮の「通り御祭礼」とは

地方文化見つめ直すきっかけに 350年前に誕生 元は広島藩の「公儀」

 約350年前の江戸初期に始まり、ことし10月10日に営まれる広島東照宮(広島市東区)のみこし行列「通り御祭礼」。原爆被害を免れた伝来のみこしとともに、総勢500人が饒津(にぎつ)神社(同)までの約1キロを往復する予定だ。もともと50年ごとに開かれ、庶民を含め最大2千人が広島城下を練り歩いたという壮大な祭り。往時の姿と熱気はどんなものだったのだろうか。(林淳一郎)

 道を清める神職、弓や鉄砲を担ぐ隊列、雅楽を奏でる楽人たち。「二百貫みこし」と呼ばれる重さ約800キロのみこしや、飾りたてた石引台(いしびきだい)花車も続く。広島県立文書館(中区)に収まる1815年刊の冊子「東照宮御祭礼略図絵」(千葉家文書)が、華やぐ通り御祭礼の全貌を伝える。

幕で彩った花車

 みこし行列はかつて、広島東照宮から現在の本通(中区)を進み、広瀬神社(同)までの約4キロを歩いた。花車を仕立てたのは城下の町衆たち。クジャクや虎の模様を施した幕などで彩り、乗り込んだ子どもたちが笛や太鼓ではやす花車もあった。

 本来は広島藩の「公儀の祭礼」だったという。「厳粛を基本としつつも、太平の世を体現するように町衆もエネルギーを注ぐ城下挙げての祭りに盛り上がっていった」と同館の西村晃総括研究員(56)は話す。

 江戸幕府を開いた徳川家康をまつる広島東照宮。家康の孫で2代広島藩主浅野光晟(みつあきら)が1648年に創建した。50年に初の大規模な祭礼が営まれ、通り御祭礼は家康没後50年の66年が始まりといわれている。同藩の地誌「知新集」は、沿道にあふれた城下や遠方からの見物客は「幾十万」と当時のにぎわいをつづる。

50年ごとに開催

 その後、祭礼は世情を反映しながら50年ごとに開かれた。1715年は「荘重厳粛」に。倹約令が出ていた65年は「簡易質素」とされたが、初めて町衆が花車1台を繰り出している。1815年には花車が5台に増え、それまで往路だけに限られていた行列の見物は復路も許可された。「美ヲ尽せり、筆紙ニも尽しがたし」―。加計(現広島県安芸太田町)の室屋文書の記述が壮観さを物語る。

 しかし、みこし行列は幕末の動乱や相次ぐ戦争で中断になった。原爆投下で爆心地から2・3キロの広島東照宮は社殿が焼失した。それでも「二百貫みこし」は奇跡的に残り、創建350年の1998年に通り御祭礼の時代絵巻を再現。饒津神社から東照宮までみこし行列を組み、県内外から約5万人が詰め掛けた。

 「みこしが無事だったからこそ復活できる。祭礼を通して広島の歴史を体感してもらいたい」と東照宮の久保田峻司権禰冝(ごんねぎ)(28)。被爆70年のことし、通り御祭礼は広島市の記念事業の一つになっている。地元経済界や市民が実行委員会を結成し、「知新集」の記録を基に広島の木材を用いた長さ4・7メートルの花車の製作などを進めている。

 今後、みこし行列の参加者も公募する。「通り御祭礼の復活は、広島にかつて育まれた文化を見つめ直すきっかけになる。現代の活気にもつながれば」と実行委のアドバイザーでもある西村総括研究員。祭礼の歩みを古文書などでたどる展示会を、27日から県立文書館で開く。

(2015年6月4日朝刊掲載)

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