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社説・コラム

『論』 「掃海」の先人たち リスクの現実 見据えたい

■論説副主幹・岩崎誠

 航海安全の神様として名高い香川県の金刀比羅宮に5月末、久しぶりに足を運んだ。掃海殉職者の追悼式が営まれたからだ。海上自衛隊員やOBらが多数集い、機雷除去の現場に携わる掃海部隊の若者たちの姿もあった。

 取材は3度目だが、ことしはひときわ報道陣が目立った。掃海という任務が集団的自衛権行使に伴う「自衛隊のリスク」の象徴と見なされるからだろう。参列の国会議員からも安全保障関連法案を意識したような式辞が聞かれた。

 追悼されるのは79人。境内の長い石段の途中にある碑に名前が刻まれている。1954年の自衛隊発足以前、海上保安庁などの掃海作業によって命を落とした。日本沿岸に残る6万個以上の機雷に挑み、復興の礎となった男たち―。

 その流れを継ぐ海自にとっては危険を承知で命を張った尊敬すべき先人なのだろう。歴代の呉地方総監が主催する追悼式にしても、隊員教育の側面があるはずだ。昔も今も海の安全を脅かす機雷と向き合う覚悟はあるのか、と。

 整然と行進し、弔銃を発射したセーラー服の隊員たちの帽子に、呉基地を母港とする掃海母艦ぶんごの名があった。もともと海外派遣を想定して造られた船であり、昨年はアラビア半島の周辺で行われた米軍主導の国際掃海訓練に参加している。隊員の表情から胸のうちは読み取れなかったが、注目を集める意味は承知していよう。

 自衛隊を取材して四半世紀になる。思えば掃海は一貫してキーワードだった。海外派遣の転機となった91年のペルシャ湾派遣部隊を、呉基地で見送った記憶は今も鮮明だ。その後も日米防衛協力のカードとして浮上する掃海部隊の動向から目が離せなかった。訓練に密着したこともある。

 それだけに、白熱する国会論戦で少し違和感を抱く部分もある。法案を攻める側も守る側も、掃海という行為をあたかも抽象的概念のごとく語っていることだ。

 そもそも機雷処理はどんな場所でも危険が伴い、危ないからこそ自衛隊が担う。さらに機雷を海に敷設し、敵の艦船を止めるのも重要な役目だ。そうした任務の厳しさはどこまで知られていよう。

 だからこそ自衛隊員ならずとも先人の犠牲に思いをはせる必要がある。特に朝鮮戦争である。50年に米国の密命に応じ、海上保安庁が北朝鮮軍の機雷除去のため特別掃海隊を派遣した。そして戦後日本でただ一人の「戦死者」が出た事実は忘れたくない。

 先日の追悼式で、その遺族の姿をことしも見掛けた。周防大島出身の中谷藤市さん。弟の坂太郎さんが乗る呉の掃海艇は北朝鮮の元山沖で機雷に触れ、木っ端みじんとなった。79人の一人として碑に刻まれる弟の名を、老いた兄はいつものように指さした。

 朝鮮半島沖には延べ1200人が動員された。その何人かから話を聞いたことがある。「平和憲法があるのに外国の戦争に行っていいか」と激論の末、大半が覚悟を決めて現地に向かったそうだ。

 むろん昔と今では掃海能力が違う。日本の水準が世界に名だたるものになったのも確かだ。ただ機雷の高性能化と処理技術向上のいたちごっこは続き、安全な掃海などあり得ない。そのことは海上自衛隊呉史料館「てつのくじら館」で簡単に知ることができる。

 個人的には自衛隊の国際貢献は時代の流れと考える。それに伴う法整備全てを否定するつもりはない。ただ生身の隊員の苦労に思いを巡らせることなしに、まともな議論が成り立つのか。木ではなく森を見ろというのが安倍晋三首相の論法だが、国を守る現場の木や枝、葉こそ見つめるべきだ。

 東日本大震災の救援で身をていした自衛隊員の姿は国民の喝采を浴びた。一方で防衛力の根幹を支える自衛官募集の現状は、依然として厳しい。わが子を送り出す親は安全に敏感であり、災害派遣すら心配する空気もあると聞く。そこに海外における任務拡大がなし崩し的に加わればどうなろう。

 リスクの本質と現実を直視した議論をなおざりにすれば、いずれ自衛隊という組織の維持にも響きかねない。その自覚が永田町や霞が関の面々にあるのだろうか。

(2015年6月11日朝刊掲載)

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