×

連載・特集

僧侶たちの8・6 <上> 安楽寺(広島市東区)前住職・登世岡浩治さん 

証言20年 「平和 次代に」

 原爆投下から70年が過ぎようとしている。僧侶たちはさまざまな手法で、被爆の惨状や命の尊さを次世代へつなぐ取り組みに力を入れる。自らの被爆体験を証言したり、伝え聞いた話を若い視点で紙芝居にしたり。心のありようや生き方を仏教の教えに照らして人々に問いかけ、平和の種をまき続ける。(桜井邦彦)

 「聞法を重ね、お念仏を中心に暮らせば、心に安らぎが生まれ、生かされているありがたさを感じられる。安心は争いをなくす上で最も大切なこと」。浄土真宗本願寺派安楽寺(広島市東区)の前住職、登世岡浩治さんは力を込める。

原爆で弟亡くす

 自らも被爆し、原爆で弟を亡くした。約20年前から被爆体験を地元の小学生たちに語り続ける。「平和な世をつないでいくには、黙して語らずではいけない」。つらさから体験を話さなかったが1994年、交流団の一員として訪れたタイで初めて被爆証言した。周囲から頼まれることが増え、命の尊さを伝えたい一心で引き受けてきた。

 原爆投下当時は旧制崇徳中(現崇徳高)の4年生で15歳。学徒動員され、爆心地から約4キロの南観音町(広島市西区)の軍需工場で鉄板の切断作業をしていて被爆した。頑丈な工場内にいて助かった。

 だが、旧制広島市立中(現基町高)1年生だった弟純治さん=当時(12)=は、爆心地から約900メートルの小網町(中区)へ建物疎開に行っていて、熱線に焼かれた。夕方、担架に乗せて寺へ連れ帰ったが、6日後の12日に死亡した。

 純治さんが亡くなる2日前、枕元で父母と2番目の姉とともに、お経を唱えた。純治さんも言葉にならないが口を動かしていた。読経後、4人の顔を見渡した純治さんは「ありがとう」と話し、そのまま意識が途絶えた。

 念仏の教えを胸に、最後まで感謝の心を忘れなかった純治さん。棺おけは吹き飛んだ天井板で作り、火葬した。初めて直面した身内の死。「この敵は絶対にとってやるからのう」と誓った。

 だが、終戦後、戦争のむごさを見聞きし、「日本が間違った戦争をしていた」という反省の思いも出てきた。46年5月に得度し、仏教の学びを深めるにつれ、復讐(ふくしゅう)心のむなしさを感じ始めた。

 思いを変えたのは「恨みに報いるに恨みをもってすることなかれ 恨みに報いるに 慈悲をもってせよ」という、仏教の教えだった。

 その意味を「お釈迦(しゃか)様は、こちらがつえを手にすると、相手もつえを取ると説かれた。つえは武器と考えられる。復讐は新たな争い、戦争を招く」と受け止める。今は復讐心は一切ない。「アメリカの人たちと温かい心の交流を重ねることが、平和な世の中を築いていく上で大切」と力説する。

地元児童と交流

 被爆後の何年間か、放射線の後障害で級友たちを次々に失った。生きて再会した友人とは「生きとったか」と喜びを分かち合った。「誰も皆一つしかない大切な命。念仏を通し、生命の大切さをそれぞれが自覚したい」と願う。

 ことしも6月11日、自坊の本堂で地元の早稲田小3年生59人に被爆体験を約1時間語った。98年から毎年、平和学習で訪ねてくる同小3年生を寺へ受け入れる。

 「平和な世に生まれたことをありがたいと思ってください」「きょうだいや友だちとけんかしても『ごめんね』と握手して必ず仲直りしてください」。人と人がつながって生きる念仏の教えを、児童にも分かる身近な表現で説いた。

 爆心地から2キロ余りの本堂は、骨組みを残して原爆で全壊した。児童は学習後、境内にある樹齢350年近い被爆イチョウに手を触れ、生命の尊さを感じた。証言を聞いた子の多くが感想文をくれる。「友だちとけんかをしません」。そんな誓いを読んで、未来へ希望をつなぐ。

(2015年6月22日朝刊掲載)

年別アーカイブ