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社説・コラム

社説 沖縄戦終結70年 「捨て石」とし続けるのか

 沖縄戦で日本軍が組織的な戦闘を終えた日から、きょうで70年になる。太平洋戦争では国内最大の地上戦であり、わずか3カ月で日米双方の約20万人が命を失った。しかも、うち約9万4千人は沖縄の住民だった。

 本土決戦を先延ばしにするための「捨て石作戦」とも呼ばれる。持久戦を強いられ、多くの住民が前線にさらされた。家族をも手にかけた「集団自決」の犠牲者は、少なくとも千人に上る。想像を絶する惨事を私たちは忘れてはなるまい。きょうの「慰霊の日」に無念の死を遂げた人々を悼みたい。

 今なお、戦いの傷痕は癒えていない。日本軍や住民が逃げ込んだ洞窟「ガマ」の中からは、遺骨や遺品が掘り起こされている。老いた体験者の脳裏には、あの凄惨(せいさん)な光景がこびりつく。心的外傷後ストレス障害(PTSD)を引き起こし、いまだに眠れぬ夜が襲い掛かるという。

 元ひめゆり学徒で、ひめゆり平和祈念資料館の島袋淑子館長(86)も、当時の一部始終が目に焼き付く。「いっそ、殺してくれ」と負傷して苦しむ兵士を看護し、息絶えると死体をひきずって穴に放り込んだ。最後は自分たちもガマを追われ、銃弾が飛び交う山野をさまよう。島袋さんは切々と語る。「武器で国は守れるかもしれませんが、国民は守ってもらえない」

 最後の激戦地となった糸満市の平和祈念公園できょう、沖縄全戦没者追悼式が開かれる。翁長(おなが)雄志(たけし)知事は平和宣言で、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古移設に反対する意向をあらためて示すとみられる。

 もういいかげんにしてくれ―。そんな県民の思いを代弁するのだろう。沖縄戦は終わったのに、27年にわたって米国の統治下に置かれ、復帰から43年たった現在も「基地の島」から抜け出せない。結局、本土を守るための「捨て石」にされ続けるのではないかという疑念と怒りが、70年を経た今も人々の胸から消えない。

 民意を無視されていることも火に油を注ぐ。昨年は名護市長選、知事選、衆院選で全て辺野古移設反対派が勝った。しかし、政府は「辺野古が唯一の解決策」と繰り返すばかりで、基地用地埋め立てのボーリング調査を強行している。

 追悼式に出席する安倍晋三首相は、翁長知事との会談を「公務のため」予定していないという。しかし、この日に沖縄の思いに耳を傾けずして、どうして対話が生まれるだろうか。

 政府だけではなく、本土の私たちがどう考えるかもあらためて問われていよう。

 翁長知事は、在日米軍基地の約74%が沖縄に集中している現実を、繰り返し訴えている。これまで沖縄が自ら提供した基地は一つもない。銃剣とブルドーザーで土地を奪っておきながら、また差し出せ、代替案を出せというのは理不尽だ。日本全体で負担してほしい―。

 安全保障の負担を沖縄に押し付ける構図は、70年たっても変わっていない。このままでいいのだろうか。今、沖縄のことは沖縄で決めようと保革のイデオロギーを超えた「オール沖縄」の流れができ、「自己決定権」という言葉が注目を集めている。沖縄の民意をないがしろにする権利は、政府にも私たちにもない。

(2015年6月23日朝刊掲載)

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