×

ニュース

[いくさの記憶] 最後の慰霊祭 万感の7・1 呉・和庄地区 空襲体験の宮本さん「続けたいが体力限界」

 呉空襲で大きな被害を受けた呉市和庄地区の慰霊祭がことしで終わる。体験者の宮本澄枝さん(88)=同市本町=が毎年個人で営んできたが、もう体力的に厳しいという。ことしは戦後70年の節目でもあり、区切りをつけようと決めた。最後の慰霊祭は7月1日にある。(小笠原芳)

 宮本さんは25日、和庄公園にある石の供養地蔵の前に立った。白菊を手向け、周囲の草を抜く。近くの斜面を見上げ、「大きな防空壕(ごう)がここにいくつかあったんよねえ」とつぶやいた。昔は毎日のように訪れていた。足を悪くして、最近は月に2、3回掃除に来るのがやっとだという。

 呉市史によると、1945年7月1日夜から2日未明にかけての爆撃で、和庄地区の壕で約550人が亡くなった。宮本さんはあの夜、空襲警報にせかされるように家族4人で壕に逃げ込んだ。

 近くの民家に焼夷(しょうい)弾が落ちた。爆風が流れ込み、息ができなくなった。「助けて」「お水を」。暗闇に叫び声が響いたのは覚えている。そのうち気を失った。明け方になり外に出ると、壕の中にいた子どもの遺体が道に並べられていたという。

 18年後の63年。自治会長だった宮本さんの父を中心に地区の有志が公園に供養地蔵を置いた。慰霊祭も始まった。83年に父が亡くなってからは1人で開いてきた。95年に一度やめたが、「生き残った者の使命だから」と翌年再開した。

 多いときには800人いた参列者も昨年は20人だった。宮本さんは「1人で営むのは金銭的にも体力的にも限界。続けたいが、参列する人も少ない」と肩を落とす。

 7月1日の慰霊祭は午前10時から1時間程度。式の後、空襲体験者が近くの園児に紙芝居を読み聞かせる。宮本さんは「ここに防空壕があったことを知る人はほとんどいない。最後は多くの若者に来てもらいたい。そして犠牲者に思いをはせてほしい」と願う。

(2015年6月28日朝刊掲載)

年別アーカイブ