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社説・コラム

私の学び 樹木医・堀口力さん 被爆の167本 声聞き守る

 広島市内に残る被爆樹木の様子が気になり、時間があれば見て歩く。70年前のあの日、原爆の熱線を受け、傷ついた木々は現在167本。多くを治療してきた。「一番思い出深い木は」と尋ねられるが答えられない。一番ではない他の木がかわいそうでね。

 大学4年の夏、友人と鹿児島県の屋久島にある宮之浦岳に登った。前年の1966年、樹齢7200年といわれる縄文杉が発見されたばかりだった。

 巨木の周囲にはてっぺんが見えないほど木々が茂り、まるで守られているようだった。近づくと幹にはコケがびっしり。木漏れ日で金や銀に光り輝いて見えた。その神々しい姿に圧倒された。

 幼い頃から木にまつわる思い出は鮮明だった。おやじが落ちた柿の木、旅先で見た海岸の松林の素晴らしさ、兵庫県芦屋の邸宅の庭木の美しさ…。学校の勉強は覚えていないが、木のことは忘れない。「緑と関わる仕事がしたい」と庭師を目指した。

 69年、広島市西区の造園会社に就職した。戦後の緑化に力を入れていた時代で、公園や学校、街路への植樹が主な仕事だった。淡々と木を植えていく作業。「思い描いた庭師の仕事と違う」。辞める覚悟で社長に訴えた。

 ところが社長から「平和な街をつくるために必要な仕事なんだ」と諭された。被爆した社長は戦後すぐ、緑を失った街で創業していた。真っ黒に焦げた幹から出た芽、花を咲かせたカンナ。被爆者に無言で生きる希望を教えてくれていた。広島に根付く木のひた向きさに、このとき初めて気付くことができた。

 ある時、日本で初めて「樹医」を名乗った第一人者、山野忠彦さんの仕事を手伝う機会があった。木に触れ、葉や幹の色、土壌の状態などつぶさに観察する視線には優しさがにじんでいた。「木の声を聞きなさい」。山野さんから教わった言葉だ。

 樹木医の認定制度が創設されたのを知った92年、樹木医になった。そして被爆樹木を守ろうと決めた。50歳を迎えた95年に独立し、樹木医として活動している。

 山野さんの教えを守り、じっくり診断する。それでも寿命にはあらがえない。現在は被爆したイチョウやクスノキなどの苗木を育て「2世」として世界に贈っている。社長の思いを引き継ぎ、世界の人に無言の訴えを届けたい。(聞き手は鈴中直美)

ほりぐち・ちから
 宮崎県木城町出身。1968年に大学の経済学部を卒業。福岡県の植木生産業者で1年間修業し、知人の紹介で69年に広島市西区の造園会社に就職。佐伯区の造園会社を経て92年、樹木医の資格取得。被爆樹木の保全や苗木の育成などに取り組んだのが評価され、ことし3月、広島市民賞を受賞。

(2015年6月29日朝刊掲載)

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