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連載・特集

戦後70年 戦争とアスリート 広島 <3> テニス 竹本旺(1925~45年) 広島勢初 全国中等学校庭球大会で単複優勝

デ杯の夢 原爆が奪う

激闘刻んだ驚異の粘り

 1945年8月6日午前8時15分。広島上空でさく裂した原爆は多くの命とともに、有望なテニスプレーヤーの将来も奪い去った。

 竹本旺、20歳、広島一中(現国泰寺高)出身。現在のインターハイに当たる全国中等学校庭球大会で、広島勢初の単複優勝を成し遂げた。その栄誉をたたえ、母校に飾られた優勝旗や杯もまた、原爆の炎が焼き尽くした。

 三原市生まれ。兄の匡さん(故人)が「辛抱強く、努力型」と評した性格で庭球にのめり込み、強豪だった広島一中に進む。

 当時、毎年8月に堺市で開かれていた全国大会は、テニス少年が「日本一」を競った晴れ舞台。41年は日中戦争の影響で中止されたが、竹本が5年生の42年に再開された。全ての試合を1セット勝負で実施。これが大会史に残る激闘を生んだ。

 初日は馬場博(故人)とのダブルスで順調に決勝進出。試練は第2日に訪れた。シングルスで辛勝を続けた竹本は準決勝で愛知一中(現旭丘高)の選手と対戦。序盤から圧倒され、1―5と崖っぷちに追い込まれた。

 だが、ここからの粘りが驚異的だった。6―6に挽回し、一進一退の攻防の末に11―9で勝利。2時間10分の熱闘を終えた竹本は「ホッとするどころか、バッタリと倒れてしまう始末」。馬場が後にこう記したほど疲弊し、翌朝も真剣に棄権を検討したという。

 回復力も驚異的だった。シングルス決勝を快勝し、続くダブルス決勝は競り勝った。「快挙に学校中が沸き返った。竹本さんは大柄だが生真面目で、基本に忠実に練習されていた」。1学年下だった医師の隅田正二さん(88)=広島市西区=は懐かしむ。

 卒業後は国別対抗戦のデビスカップ(デ杯)出場を目指して慶大に進学。だが、戦局の悪化が青年の夢を阻んだ。45年、広島市の基町にあった中国第111部隊に入隊。8月6日を迎えた。

 単複優勝から70年後の2012年。焼失を惜しんだ広島県高体連テニス専門部は、竹本らの名前を刻んだ優勝杯を作り、国泰寺高に寄贈した。色あせない偉業と原爆の悲話を、ガラスケースの中で語り継いでいる。(加納優)

(2015年7月2日朝刊掲載)

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