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連載・特集

戦後70年 戦争とアスリート 広島 <5> 体操 池田敬子(1933年~) 日本女子唯一の世界選手権

金メダル 耳に残る海外での罵声

物資欠乏 土の上で練習

 メルボルン五輪開会式の入場行進が突然、乱れた。日本選手団を遮ったのは年配のオーストラリア人女性。「ジャップ」。敵意むき出しの言葉は今でも、池田(旧姓田中)敬子の耳に残っている。

 「日本との戦争で息子を亡くした女性だったと後で知った。息子を返せ、と叫んでいた」。1956年11月。「戦後」と呼ぶにはまだ、生々しさの残る時代だった。

 三原市の佐木島で生まれた池田自身も、戦争で肉親を失っている。45年8月6日の原爆投下で叔父を亡くし、翌日に広島市街を尋ね歩いた父もその冬死去した。当時12歳。だが、天性の明るさと運動能力を持つ少女は、三原高で出合った体操を通してたくましく成長していく。

 最先端の体育館が整備されていたソ連や東欧諸国と違い、物資に乏しい時代。日体大では主に土のグラウンドで練習を重ねたが、「全く苦にならなかった」。54年のローマ世界選手権の平均台で日本女子初、そして唯一の金メダルを獲得。戦後復興に励む人々の希望として脚光を浴び、故郷の佐木島ではちょうちん行列も催された。

 国際舞台で戦う中で東西冷戦の悲劇も目撃する。64年東京五輪などで金メダルに輝いた友人ベラ・チャフラフスカは、当時の母国チェコスロバキアの政治事情で長く軟禁状態にあった。「メダルが政治に利用されてはいけない」。池田が東京の自宅に招いた際、そう言って泣いたという。

 五輪中に友人の東欧選手から亡命の決意を告げられたことも。「ルーマニアの白い妖精」と呼ばれたナディア・コマネチが米国に亡命した後、自宅を訪れた際は靴の多さに驚いた。「亡命の時、はだしで懸命に逃げたから、今でも靴が捨てられない。そう聞いて胸が痛んだ」

 「国の威信」が懸かった理不尽な採点も経験したが、そのたびに闘争心に変えてきた。東京五輪では団体総合銅メダルに貢献。日本女子でただ一人、国際体操殿堂入りも果たしている。

 「誰もが何かと戦ってきた世代。他人やけがのせいにせず、覚悟を決めてやってきた。たくましくならざるを得なかった」。女性、妻、母として戦後を先頭で走り続けたアスリートは、81歳の今でも難なく倒立をこなす=敬称略。(加納優)=おわり

(2015年7月4日朝刊掲載)

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