地場産業の戦後70年 自動車 救世主、赤いファミリア
15年7月6日
「三輪」生産 飛躍の土台に 危機を逆手に技術鍛える
自動車メーカー、マツダの戦後の経営を救った車がいくつかある。その一つが「赤いファミリア」。1980年に発売して大ヒットした5代目の小型車ファミリアだ。
マツダは67年、今でも同社の象徴といえるロータリーエンジン(RE)車の量産に世界で初めて踏み切った。国内外で販売が急増したが、73年に石油危機に見舞われる。「燃料をがぶのみする」と米国で酷評され、一転、深刻な経営難に陥った。元専務の正岡博さん(89)は「世界初のREは売れるじゃろうと客を見ずに、いけいけどんどんだった」と明かす。
74年にはメーンの住友銀行(現三井住友銀行)がマツダに役員を送り、経営の主導権を握る。住銀が進めた再建策は米フォード・モーターとの提携だった。79年、フォードはマツダ株の25%を取得した。
この経営危機から脱するきっかけになったのが、戦後生まれの家族層を狙った5代目ファミリアである。開発に携わった元専務の滝口忠彦さん(76)は「子育て世代が増え、車はステータスではなく、生活で使う物になった。社会の期待に応える車を全社が一丸となって造った」と力を込める。当時、世界最速の2年余りで生産が100万台に達し、第1回日本カー・オブ・ザ・イヤーを獲得した。
乗用車を発売 高度成長の到来
マツダの戦後は、幾度も復活劇を演じた歴史でもある。東洋工業(現マツダ)は戦前、断熱用コルクが主力のメーカーだった。自動車事業に乗り出したのは31年。三輪トラック「マツダ号」を造り始めた。
原爆の投下時、広島県府中町の社屋と工場は比治山のおかげで大きな被害を免れた。その社屋には、壊滅した広島市中心部から県庁が移ってきた。
終戦後、すぐに三輪トラックの生産を模索した。資材がそろわず、元専務の正岡さんは「タイヤがない車がずらっと並んだ」と語る。それでも被爆から4カ月後、製造再開にこぎ着けた。三輪トラックは広島の復興を支えた。
倉敷市の三菱重工業水島機器製作所(現三菱自動車水島製作所)も戦後、航空機からオート三輪の製造に転換。46年、第1号の「みずしま」を完成させた。
高度成長期に入ると、街を走る三輪トラックは減り、乗用車が目立つようになった。マツダは60年、初の乗用車「R360クーペ」を発売した。先行メーカーより2割安い約30万円。設計部門にいた元副社長の高橋昭八郎さん(82)は「サラリーマンに高根の花だった乗用車が手の届く存在になった」と話す。59年に月約5千台だった生産は2年で3倍以上に増えた。
企業合併進む フォードの出資比率上昇
戦後の中国地方の自動車産業を担ってきたのは、マツダや三菱自動車ばかりではない。この地方には現在、約460社の自動車部品メーカーがあり、自動車産業に携わる従業員は計6万人に上るという。
マツダ車のドアを造っているヒロテック(広島市佐伯区)。鵜野俊雄相談役(79)は「不況の時代はみんな苦しい。だが、生産が忙しくないため、新しい金型や装置の技術開発に取り組めた」と振り返る。たくましい部品メーカーの姿だ。
5代目ファミリアの成功などで一息ついたマツダの経営が90年代、再び危機を迎える。バブル期の販売網拡大が重荷になった。販売会社の広島マツダ(広島市中区)の松田欣也会長(78)は「シェアの奪い合いでずっと苦しかったのに、さらに厳しくなった」と言う。
そして96年、フォードは出資比率を33・4%に引き上げ、外国人社長を送り込んだ。マツダは7年間で4人の社長を受け入れた。
2003年、久々の生え抜き社長となった井巻久一相談役(72)は「大胆な決断があったからこそマツダは生き返れた」と強調する。
フォード傘下時代には、部品メーカーへのコスト削減要請も強まった。プレス部品や樹脂部品などで有力企業同士の合併も進んだ。
低燃費に活路 リーマン・ショック後
08年のリーマン・ショック後、今度はフォードが経営危機に陥る。マツダ株を順次売却し、今の出資比率は2・1%にとどまる。
リーマン・ショックはマツダにも大打撃となった。09年3月期から4年連続で最終赤字を余儀なくされた。再度の復活劇を演出したのは、スポーツタイプ多目的車(SUV)のCX―5。マツダが社運を懸けて開発した独自の低燃費技術「スカイアクティブ」を初めて全面採用し、12年に発売した。国内外でヒットし、ファミリア以来、4回目となる日本カー・オブ・ザ・イヤーを受賞した。さらに昨年は小型車デミオが5回目の受賞を果たした。
スカイアクティブについて、元常務執行役員の龍田康登さん(67)は「エンジニアたちが何とか低燃費と軽量化を実現しようと考え抜いた」と説明する。
昨年、メキシコ工場を稼働させ、ことし3月期の決算では2年連続で過去最高益を更新したマツダ。5月には、安全や環境面を軸にトヨタ自動車と包括提携を結んだ。部品メーカーを含めた広島の自動車産業が新たな時代を迎えようとしている。(桑島美帆)
自動車業界の主な出来事
1931年10月 東洋工業(現マツダ)の松田重次郎社長が三輪トラック
「マツダ号」の製造を開始
45年 8月6日 原爆でマツダモータース(現広島マツダ)は全従業員が
死亡▽12月 東洋工業が三輪トラックの生産を再開
46年 6月 三菱重工業水島機器製作所(現三菱自動車水島製作所)
が三輪トラック「みずしま」の生産開始
50年 6月 朝鮮戦争
60年 5月 東洋工業初の乗用車「R360クーペ」発売
61年 4月 新三菱重工水島製作所が初の軽乗用車「三菱360バ
ン」生産開始
67年 5月 東洋工業が初のロータリーエンジン(RE)搭載車「コ
スモスポーツ」発売
73年11月 第1次石油危機
74年12月 住友銀行(現三井住友銀行)などが取締役を東洋工業に
派遣
77年 1月 東洋工業がハッチバック採用の4代目ファミリア発売
77年12月 故山崎芳樹氏が東洋工業社長に就任し創業家経営に幕
79年11月 東洋工業がフォードと資本提携
80年 日本の自動車生産が1千万台を超え、米国を抜き世界一
に
81年 5月 日米貿易摩擦で、日本政府が国産乗用車の対米輸出自主
規制措置を発表(93年度末まで)
82年 9月 東洋工業が防府工場稼働
84年 5月 東洋工業がマツダに社名変更
87年 9月 マツダが米ミシガン州の工場で生産開始(2012年8
月生産終了)
89年 1月 マツダが高級車専用「ユーノス」など「5チャンネル体
制」を発表
96年 5月 フォードがマツダの持ち株比率を33.4%に
2001年 3月 プレス部品メーカー4社(クラタ、三浦工業、ヤマコ
-、三葉工業)が「キーレックス」と「ワイテック」に
再編、マツダが2213人の希望退職を実施
08年 9月 リーマン・ショック▽11月 フォードがマツダ株2
0%分を売却
09年 6月 三菱自動車水島製作所で電気自動車「i MiEV(ア
イミーブ」の量産開始
14年 1月 マツダがメキシコ工場稼働
15年 5月 マツダとトヨタ自動車が包括提携に基本合意
(2015年7月4日朝刊掲載)