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8・6式典参列 フクシマの遺族 「痛み」共有 切に願う

■記者 田中美千子

 原爆に肉親を奪われ、さらに今、福島原発事故によって暮らしを脅かされている人たちがいる。福島県に暮らす原爆犠牲者の遺族だ。広島市は毎年、平和記念式典に各都道府県の遺族代表を招いている。福島からのことしの参列者とこれまでの代表は、原爆の日をかつてない思いで迎え、ヒロシマに痛みを共有してほしいと訴える。


今年参列する酒井浩三さん(54)=福島市
父佑三さんが昨年12月、急性心筋梗塞で死去。85歳。

父の思い今は実感

 酒井さんは電話越しに語ってくれた。ヒロシマを、遠くに感じていたという。原発事故後、「よそ事と思えなくなった」。広島市中心部にあった広島工業専門学校(現広島大工学部)に通い20歳で被爆した父の思いも、今なら分かる気がする。「被爆体験だけは話さなかった。放射能を浴び、いろいろ嫌な思いをしたんでしょう」

 3月11日の震災発生時は仕事先の札幌にいた。妻と娘を14日までに新潟のホテルへ向かわせ、約1週間滞在させた。「放射線量の高さが分かっていれば、あんなに早く福島に帰らせなかった。国の発表が遅すぎた」

 5年後、10年後、福島の子どもたちは元気でいられるのか。地場産業はどうなるのか。考えだすと絶望的な気分になるという。

 「原爆に打ちのめされた状態を克服した広島は立派だ」と思う。6日に初めて訪れる原爆ドームを、その目に焼き付けるつもりだ。


2002年参列の岡崎フミさん(83)=伊達市
夫久次さんが01年7月、肺がんで死去。80歳。

「脱原発」の訴え発信を

 「こんないい天気なのに」。青空の下、先祖伝来の柿の木を見上げ、岡崎さんはため息をついた。「息をするのも怖いなんて。戦時中もつらかったけど、今の方がひどい。この柿だって食べられっかどうか…」。枝には青々した実が膨らむ。

 伊達市五十沢(いさざわ)地区は「あんぽ柿」と呼ばれる干し柿の発祥の地でもある。岡崎家の柿は約160本。同居する長女美智子さん(52)と夫次郎さん(51)が継いだ。次郎さんは農業に専念するため、2月に仕事を辞めた。その直後に震災が起きた。伊達市は放射線量が局所的に高い「ホットスポット」がある。あんぽ柿は震災後、卸値が4分の1になった。

 ふと、亡き夫の姿が浮かぶ。亡くなる10年ほど前、地元の公民館に頼まれ1度だけ、被爆証言をした。福島から召集されて24歳の時、似島(現広島市南区)で閃光(せんこう)を目撃。市街地でも救護に当たった。「放射能は怖い。核はなくすべきだ」と涙ながらに語った。

 「原発がこんなことになって悲しんでるだろうね」と岡崎さん。

 美智子さんも「原爆は恐ろしいと思ってきた。でも、原発の事は知らなすぎた」と省みる。水は安全なのか。畑に出るのは大丈夫だろうか。家族を避難させなくていいのか…。押し寄せる疑念を振り払い、日々を送る。

 美智子さんは母に付き添い、平和記念式典に参列した。半年前にも夫の退職記念にと、夫婦で広島を訪れた。「ヒロシマの訴えに重みを感じた。脱原発のメッセージも発信してほしい」と願う。


2005年参列の見常香代子さん(74)=福島市
夫譲さんが04年8月、肝細胞がんで死去。73歳。

夫の苦しみ 孫にはさせぬ

 一人暮らしの自宅を訪ねると、段ボール箱が山積みだった。中身は、7月まで近くに住んでいた孫娘(13)の衣類や本。茨城県の親戚の元に母親と共に転居させ、預かった荷物という。息子は市内の社宅に残る。「仕方がない。孫の命に関わるんだもの」。見常さんは自らに言い聞かせるように話した。

 「福島は汚れてしまった。ここに住むのは大変よ」。野菜は全て静岡の弟に送ってもらう。水道水は信用できず、煮炊きにも使わない。「放射能の恐ろしさは身に染みているから」。視線の先に、譲さんの遺影があった。

 14歳の時、南蟹屋町(現南区)の自宅で被爆。勤労奉仕に出ていた母を捜し、市街地を1週間も歩き回ったらしい。結局、見つけられないまま。同じ山口県出身の香代子さんと結婚し、東京を経て福島に移り住んだ。50代以降はがんを患い、苦しみながら逝った。「夫の体は放射能にむしばまれた。孫には同じ思いをさせたくないの」

 息子夫婦を説き伏せたものの、原発事故で放出された放射性物質に今度は家族を分断された。悔しくて、寂しい日々だが、生活が落ち着いたら趣味の旅行を再開したいという。まずは広島を再訪するつもりだ。「同じ痛みを知る街。ほっとできる気がするから」

(2011年8月2日朝刊掲載)

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