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連載・特集

戦後70年 戦争とアスリート 広島 <4> 陸上 山内リエ(1922~2000年) 女子走り高跳び・走り幅跳び元日本記録保持者

世界への跳躍阻まれ

呉の偉才 織田氏も絶賛

 「飛燕(ひえん)の鮮やかさ!」「満場アッと感嘆」。1936年11月4日付の中国新聞は社会面のトップで驚きを伝えている。前日に広島市であった広島県総合体育大会の陸上女子走り高跳びで、1メートル55の日本新記録が誕生。打ち立てたのはわずか14歳の少女だった。

 呉市生まれで、呉精華女学校(現清水ケ丘高)の山内リエ。「呉のスーパーウーマン」と呼ばれた跳躍の偉才は、戦争に国際舞台への踏み切りを奪われた「悲運のジャンパー」でもある。

 11歳の頃からほぼ独学で三段跳びや走り高跳びの練習を重ねた。日本記録を出した後は座骨神経痛に苦しみ、1年後に療養を兼ねて愛知・中京高等女学校(現至学館高)へ転校。40年の東京五輪で走り幅跳びが採用されると知り、猛練習を始めたほど国際舞台を見据えていた。

 しかし、政府は国際情勢の悪化を受けて五輪開催を返上。40年と44年の五輪は中止された。伸び盛りの18~20歳を戦時下で迎え、完全に競技を離れた。「鬱々(うつうつ)とした楽しまない日々」。後のエッセーで当時の心境を語り、終戦の日に一人、スパイクを磨いたことを明かしている。

 終戦直後は中国新聞社で健筆を振るったが、46年に京都を拠点として本格的に競技に復帰。47年には走り幅跳びで日本人女性で初めて6メートル台を突破するなど、世界でもトップ級の記録を連発した。「短髪、ブルマーで、さっそうと跳ぶ姿を覚えている」。日本陸連顧問の帖佐寛章さん(85)=千葉県船橋市=は記憶をたどる。

 だが、運命はどこまでも非情だった。アスリートとして最後の輝きを放つはずだった48年のロンドン五輪に、敗戦国・日本の参加は認められなかった。この大会での女子走り幅跳びの優勝記録は5メートル695。山内が持つ6メートル07の日本記録を大きく下回っていた。

 「わが女子陸上界が生んだ偉才」「世界の驚異」。跳躍の第一人者で同郷の織田幹雄も絶賛した山内は、一線を退いた後も毎日新聞社の運動記者として活躍。90年、母校の中京女大(現至学館大)に招かれた際には自らのモットーを後輩に伝えている。「努力は天才である」。78年の人生をひたむきに、りりしく駆け抜けた。(加納優)

(2015年7月3日朝刊掲載)

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