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連載・特集

僧侶たちの8・6 <下> 教専寺(広島市西区)副住職・故選義法さん 

祖母の苦悩に非戦誓う

 広島市西区の浄土真宗本願寺派教専寺副住職、故選(こせん)義法さんは、広島県西部の安芸教区(546寺)で平和・環境部会の副部長を務める。原爆や平和の問題と真正面から向き合うきっかけは、原爆で両親を亡くした母公子さん(75)から5年前に手渡された1通の手紙だった。

 差出人は、1945年8月31日に31歳で原爆症のため亡くなった祖母の藤末輝子さん。8月10日付で山口県の義父に宛て、被爆直後の様子などが便箋16枚にペンで書かれている。故選さんが手紙を手にしたのは、部会の一員として、戦争体験のない世代が何をどう語り継いでいくべきかと悩んでいた時期。母に頼んで初めてその半生を語ってもらった後だった。

祖父救出できず

 あの日、輝子さんは爆心地から約1キロ離れた寺町(広島市中区)の自坊にいた。原爆で倒壊した庫裏の下敷きになった夫義城さんを救出しようとしたができず、念仏を唱えながら迫る火の手から逃れた。義城さんはそのまま亡くなった。

 手紙には、「私はからだは人間でも心は鬼と化して仕舞いました」「私は未だにあのまま一緒に死ぬるのが妻の道であったかと苦しみ続けてゐます」「可愛い子供があるのでそれを育て、倶会一処の時を待ちませう」「すみません。輝子をお叱りください。大事な義城様を殺しこんなお知らせをするこの輝子を。すみません」などとつづってある。

 当時5歳だった公子さんは広島県河内町(東広島市)の寺に疎開していて、助かった。その後、16枚の手紙を「お母さん」と胸に抱き続け、苦しい時に広げては、生きる糧にしてきた。「仏法のように深く、味わい深い手紙。布教使を務めている息子に伝え、法話で生かしてほしい」との思いから、義法さんにこの手紙を託した。

 義法さんは部会のメンバーとして、本願寺広島別院(広島市中区)で毎年7月に営まれる戦争死没者の追悼法要や、関連行事など平和関連の取り組みの準備、運営などを仲間たちとこなす。行事を通じ、「僧侶も戦後世代が増え、何を伝えていくのか、自分を含めて分からなくなっている気がする」と感じている。

 5年前、教区主催のシンポジウムでコーディネーターを務めた時、若い世代がどう被爆体験を語り継いでいくかなどについて、同世代の講師たちと議論した。原爆投下後の様子を描いた絵を見た被爆者の男性は「もっとひどかった」と首をかしげた。「あんたら若い人に何が分かるのか」と言われているような気がした。そんな時に受け取った祖母の手紙だった。

 自らを「鬼」と何度も表現し、義父にわびた輝子さん。浄土での母との再会を「倶会一処」の教えによって信じ、母に恥じない生き方をと努め続けてきた公子さん。義法さんは2人の姿を「こんなに悲しく、つらい倶会一処があるのかと心に染みた。一方で、この教えを信じ続けることが、2人の本当の救いになったと思う。ただの苦労話ではない」と受け止める。

 「3人の子を育てる普通のお母さんだった祖母に、自らを『鬼』と言わせたのは戦争。争いでは決して決着がつかず、遺恨を残すだけ」と非戦の思いを新たにした。「仏法を聞いていた祖母は、自らが『罪悪深重の凡夫』だと気付き、念仏のはたらきで救われたのではないか」と、聴聞の大切さもあらためて実感した。

伝え方 今も模索

 今も、平和の尊さの伝え方に迷い、模索する日々が続く。ただ、母や祖母の思いに触れて「仏法を通じて平和を唱えていくことが僕らの使命」との思いが強まっている。「人が人と争う最悪の状態が戦争。お互いが悪人同士だと仏法は教えており、そのことに互いが気付けば、戦争は静まっていくのではないか」(桜井邦彦)

(2015年7月6日朝刊掲載)

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