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社説・コラム

社説 南三陸町の被災庁舎 残す意味 議論尽くして

 東日本大震災の津波の猛威を伝える生き証人の解体が見送られることになった。宮城県南三陸町の防災対策庁舎である。

 阪神大震災を教訓に建設された防災拠点だったが、15メートル以上の津波を受けて、もろくも骨組みだけと化した。4年以上たっても、そのままの姿で残る。

 国内外の多くの人が足を運び、被災地を象徴する光景となっているのは間違いない。佐藤仁町長の判断を評価したい。

 いったん解体を決断した町長が思い直したのは、県の意向を重く受け止めたからだろう。

 町内に両論がある。あの日の記憶を伝えるために保存すべきだという声と、もう見たくないし、復興の邪魔になるから壊せという声だ。保存を望む村井嘉浩知事からは最終結論は棚上げし、維持管理を県に委ねた上で時間をかけて議論したら、と提案があった。町として、その助け舟に乗った形になろう。

 外から見れば、考えるまでもなく残したい遺構に映る。県の有識者会議が出した報告書でも「原爆ドームにも劣らない発信力がある」と評価している。

 一方で、住民の心情も無視していいはずはない。最後まで避難を促すアナウンスを続けた女性職員を含む43人が命を落とした場所であり、町長も庁舎にいて九死に一生を得た。それだけに犠牲者の遺族らが解体を望むことに配慮したいのも分かる。町の復興を進めつつ、慎重に議論を尽くしてほしい。

 私たちもひとごととは思えない。庁舎をめぐる議論が、広島における原爆ドーム保存論争を先例としているからだ。残す決断をしたからこそ世界遺産登録にもつながった―。その点が庁舎保存を訴える人たちの支えとなってきた。さらに町長自身も市長としてドーム保存に尽くした故浜井信三氏の回顧録に感じるところがあったと聞く。

 宮城県が庁舎を県有化するのは「震災から20年」の2031年までがめどである。これもドーム保存が決定するまでの期間に倣ったという。広島では市議会が被爆21年後の1966年に保存を決議しているからだ。

 確かに広島では復興の過程でさまざまな意見があり、被爆者の心の傷をどう考えるのかも問われた。永久に残すとすればどんな意味があるか。震災を伝える営みと復興とのバランスをどう取るか。南三陸の人たちにとっても、これからの議論の役割は重いはずである。

 それは同時に日本全体の課題でもあろう。東北の被災地では爪痕を刻む遺構が次々と姿を消し、保存の決定は限られる。ことしで20年の阪神大震災を思い返したくもなる。街に災害の遺構が失われたことが、記憶の風化にもつながってきた。

 津波だけではない。原発事故で全町避難が続く福島県双葉町では27年前設置された「原子力明るい未来のエネルギー」の看板を撤去するか、未来への教訓に残すかが問われている。

 場合によっては地元任せではなく、国がさまざまな遺構の保存をもっと後押しすべきではないか。長期にわたる維持費用をどうするかも大きな問題だ。

 こうした被災地における議論は、逆に被爆地の今を考える上で参考にできよう。例えば被爆した建造物をどこまで真剣に後世へ残そうとしているか。胸に手を当ててみたい。

(2015年7月3日朝刊掲載)

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