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連載・特集

つなぐ~戦後70年 戦争の記憶 召集され陸軍に入った報道写真家 福島菊次郎さん=柳井市

毎日殴られ 地獄だった 安保法案「痛恨の極み」

 被爆者や自衛隊、公害、そして福島第1原発事故―。レンズを通して戦後日本を問うてきた。権力と対峙(たいじ)してきた「反骨」の奥底に刻まれているのは、徴兵された20代前半の戦争体験。痩せこけた体をベッドから起こし、淡々と語り始めた。

ぼろ切れ扱い

 下松市の網元の4男。馬での物資輸送を担う陸軍輜重(しちょう)兵として広島市の部隊に2度入隊した。最初は1944年春で任務中、馬に蹴られ入院の末に除隊。45年春に再召集された。

 福島さんを待っていたのは、訓練に乗じた古参兵による壮絶な虐待だった。「僕たち2等兵は階級社会の最底辺。1等兵たちに毎日ぶん殴られた」と振り返る。暴力の理由は短剣の紛失、整列の遅れなど何でもよかった。

 顔を軍靴で殴られた初年兵は鼻血を飛ばし、口の中を腫らした。腹を壊し、つらさでしゃがんだ福島さんも頬を平手打ちされ、翌朝も食らった。

 「ぼろ切れ扱いの使い捨て。地獄だった」。耐えかねた3人の初年兵仲間が、列車に飛び込むなどして命を絶った。それでも「天皇のために死に、靖国神社にまつられることが男の花道と疑わない軍国主義の青年だった」。

 2度目の召集は、地面に掘った穴の中に爆雷を背負って身を潜め、米軍の戦車を迎え撃つ「自爆」が軍務。本土決戦に備えた特攻だった。戦車に見立ててベニヤ板を張ったリヤカーに突っ込む訓練を連日強いられた。手の皮が何度もむけた。

 そして7月末の夜、移動命令が出た。行き先も教えてもらえないまま列車に乗せられ、九州方面へ。そこが宮崎県の日南海岸だと知ったのは戦後だった。砂浜に穴を掘り、敵をひたすら待ち構えた。

 「僕が広島を離れた1週間後(8月6日)に原爆が落とされた。戦車の上陸もなく、偶然にも助かった」。下松の実家に戻ると、母親は自分をまるで幽霊のように見詰めていた。広島で死んだと思い込んでいた。

 帰郷後、時計店を始めた。46年、原爆ドームに草が生えたとの新聞記事を目にしたのを機に、広島で撮影活動を始める。原爆の後遺症に苦しむ被爆者を10年間追った自身初の写真集「ピカドン ある原爆被災者の記録」を発表。その後も反権力やマイノリティー側の視点で、社会の矛盾やひずみをあぶり出した。

反体制の根源

 戦争で、戦いを指示する者と、それに従って犠牲になる者の構図を身をもって知った。「それに無条件で従った自らの愚かさに対する反逆が、僕の反戦、反体制の根源」。軍隊生活と敗戦で抱いた国家への不信感は、撮影活動で一層強まった。

 87年に見つかった胃がんで、胃の3分の2を摘出した。その後も数々の病気を患い、体重は30キロ台前半。体は弱り、今は柳井市のアパートのベッドの上で一日の大半を過ごす。

 集団的自衛権の行使を可能にする安全保障関連法案を「紛争をもいとわない、必要とあらばやるぞ、という思考が前提だ。(戦争放棄を定めた)憲法9条の理念が否定されている」と断じる。「自分の最期にこういう時代を迎えるなんて。毎日横になって死ぬのを待っているしかないのが痛恨の極み」。目に危機感と悔しさをたたえ、声を振り絞った。(井上龍太郎)

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 終戦から70年。先の大戦を知る人は高齢化し、10年ごとの節目として証言を残せる最後の機会になるともいわれる。県内の元兵士や空襲の体験者たちの記憶をたどる。

(2015年7月8日朝刊掲載)

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