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創基200周年 山口大の来た道 空襲・原爆 教授ら長崎で救護・調査

 1945(昭和20)年7月2日、宇部市は空襲に襲われ、街は焼け野原となった。前年に開校していた県立医学専門学校には、大勢の負傷者が収容された。

 医師は外科の1人だけだったため、学生たちも、焼け出されて同居していた付属の沖の山同仁病院の看護師に教えられながら治療に当たった。

 8月には広島市に続き、長崎市に原爆が投下された。既に広島市が壊滅状態のため、長崎市に行くことができた医学系学部のある大学は九州大、熊本医大と県立医学専門学校の3校だった。

 県立医学専門学校からは冨田雅次校長をはじめ教授6人、助教授1人、学生18人が直ちに長崎に向かい、救護、調査に当たった。当時の県立医学専門学校は解剖刀さえない状態で、出発間際に闇市で包丁を買い求め、唯一の解剖刀として持って行ったという。

 戦時中は、高等教育機関でも勤労作業が強いられた。山口高等商業学校(山口経済専門学校)では38(昭和13)年に集団勤労作業が始まった。旧制山口高でも、椹野川の堤防強化作業や稲刈り、ソバの刈り入れ奉仕などのほか、終戦間際には防府市の工場に動員された。

 教員養成の重視から特例扱いされていた県師範学校の生徒も、44(昭和19)年になると勤労作業に駆り出された。

 宇部高等工業学校では工場や鉱山での勤労作業の傍ら、軍事教練があった。歩兵銃を担ぎ、砂袋の入った重い背嚢(はいのう)を背負って夜間に宇部と萩の間を行軍訓練する。体力の限界に挑む過酷さだったと伝わっている。

 小郡農業学校の勤労動員先は農村から工場へと変わり、修業年限を短縮して産業部門へ配置された。山口高等獣医学校(山口獣医畜産専門学校)の45年の新入生は入学して2カ月足らずで、県外各地への学徒動員や軍への応召などで学びやを離れた。

 そして迎えた8月15日の終戦。学生たちは、暗い戦争の谷間をようやく抜け出した解放感に浸った。混沌(こんとん)としていたが、ひとまずの自由を胸いっぱいに吸える充実感にあふれていた。(山口大創基200周年記念事業事務局)

(2015年7月8日朝刊掲載)

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