×

連載・特集

つなぐ~戦後70年 戦争の記憶 中国で従軍した河上佳生さん=岩国市 

行軍1000キロ 脱落すれば死 終戦…「古里に帰れる」

 「脱落すれば死んでしまう。でも自分で前に出る力は残っていなかった。恐怖心が足を動かした」。陸軍兵士として中国で従軍した。1945年1月に南京を出発し、湖北省宜昌の郊外まで、千キロ以上の道のりを行軍した。

手段 歩くしか

 42年に県立岩国中学校を卒業。会社勤めをしていた44年12月、徴兵で山口の部隊に入隊。門司港(北九州市)から朝鮮半島へ渡った。父は41年に病死し、兄3人は既に戦地へ。母を岩国に残して向かわなければならなかった。

 南京まで列車で移動し、そこから歩いた。出発したのは45年1月末だったと記憶する。部隊は約150人。「歩くしか手段がなく、銃も一人一人に持たされなかった。敗戦が近いことをうっすら感じた」と振り返る。

 行き先は「軍の秘密」で教えられなかった。内陸部に駐屯する部隊の交代要員になることは後に分かった。途中で半分が旧満州(中国東北部)に向かうことになり、別れた。

 1日30、40キロを歩いた。何百匹ものシラミが体をはい、足の裏はまめだらけになった。行軍の途中、下痢で命を落とした初年兵仲間もいた。ベルトに縄を付けて引っ張り、歩くのを手伝った。ようやく目的地にたどり着き、体を横たえるとしばらくして息絶えた。荼毘(だび)に付すことになり、火の番をする役に手を挙げた。

 深夜、宿舎から離れた場所で、敵に襲われるかもしれないという恐怖が全身を覆った。「悲しいという気持ちは当然あった。でも、あすはわが身。火葬で行軍が休みになって内心ほっとした」と吐露する。

亡き戦友思う

 長江沿いの宜昌郊外に着いたのは、2カ月以上たった4月ごろだった。その後は訓練の日々。間もなくマラリアにかかり、8月15日の終戦は体の弱い兵隊を集めた訓練所で迎えた。翌日、隊長から涙ながらに終戦を告げられた。「負けて悔しいというよりも、古里に帰れる安堵(あんど)感が大きかった」

 すぐには帰国できなかった。捕虜として、宜昌から東に約180キロ離れた天門郊外の中国人の家に分宿させられた。強制労働の要求はなく、日本軍が貯蔵していた米を食べさせてもらった。子どもに英語を教えて、お礼に食事をごちそうになったこともあった。

 46年4月、上海から船で復員。後に岩国市長となった長兄と3番目の兄は無事だったが、2番目の兄は硫黄島で戦死した。自身は市議となり、96年には議長に就任。さまざまな公職を務めた。

 「行軍が休みになってほっとした自分を振り返ると、今でも亡くなった戦友に申し訳ない気持ちになる。戦争は絶対に反対。子や孫に同じような経験をしてほしくない」と願う。(増田咲子)

日中戦争
 1937年7月7日、北京郊外で起きた盧溝橋事件を発端とし、8年間に及んだ日中間の戦争。日本軍は北京や天津を総攻撃、8月には戦火が上海に及び全面戦争に突入した。中国側は国民党と共産党による第2次「国共合作」を9月に成立させ、抗日戦争を強化。日本は太平洋や東南アジアなどに戦線を広げたが、45年8月にポツダム宣言を受諾して降伏した。

(2015年7月9日朝刊掲載)

年別アーカイブ