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連載・特集

ヒロシマ70年 第1部 まちの原点 <2> 18歳巡査 救援で奮闘 

安全な場へ市民を誘導

 あの日が18歳の巡査にとって初出動となった。広島県警察部(現県警)警備隊にいた新谷徳美さん(88)=福山市=は、小隊が駐屯していた広島市段原町(現南区)の多聞院で被爆。軽傷だったため、水主町(現中区)の同隊本部を見に行くよう上官に命じられた。原爆投下から約4時間後。逃げ惑う市民の流れに逆らい、市中心部を目指した。

徴兵で人不足

 若者の徴兵で人員不足だった県警は、採用年齢を引き下げていた。新谷さんは1945年6月に最年少の17歳で巡査となり、7月、空襲下の治安維持を主な任務とする警備隊に配属されたばかりだった。

 警笛を内ポケットに入れ、鉄かぶとをかぶった。そこここで炎が上がっていた。熱風に耐え切れず、川に飛び込んで制服をぬらして歩いた。大やけどをした女学生から「お巡りさん助けて」と声を掛けられたが、薬も包帯も持っていない。「軍の救援が来るから」と言うほかなかった。

 30分ほどで本部に。壊滅状態だった。住吉橋近くで、重傷を負い、サーベルをつえ代わりに突いていた警察練習所長(現警察学校長)に救援活動に加わるよう言われたという。

 南方面は安全だからと市民を誘導した。動けない負傷者を軍の救援トラックが見つけやすいよう橋や土手へ運んだ。請われて川の水を空き缶でくんで飲ませると、裂けた喉からこぼれ落ちた人もいた。「想像を絶する状態だった」

 広島原爆戦災誌などによると、被爆直後に警察活動に従事できたのは県内で約500人。8月20日までに、警察機関が運び出した遺体は1万7865人に上る。

 終戦後、警備隊は特高警察に代表される戦前の警察組織とともに廃止された。新谷さんは46年秋、警察練習所で民主警察の一員として再教育を受けた。

 しばらくは広島東署管内の交番に勤めた。靴磨きの少年が「客が金を払わん」と泣いて訪れ、同僚が小遣いをあげたこともあるという。周囲が体調不良で相次いで辞める中、県警に残った。「あの悲惨な状況を見たからこそ、警察官として広島の街が復興していく様子を見守ろうと思った」

「最大の犯罪」

 あの日、やはり住吉橋の近くで新谷さんと同期の白砂清三さん(87)=安佐北区=も負傷者の救助に当たっていた。がれきの中で1週間ほど寝泊まりし、被爆者の生存確認や死体の搬出作業に当たったという。戦後、再教育を経て、刑事として主に盗犯担当で手柄を挙げた。「闇市へ転売しようとする着物泥棒が多かった。当時は拳銃も手錠もない。警棒だけで犯人を追い掛けた」と振り返る。

 原爆投下後のまちでの奮闘について、2人は「当たり前の職務」として多くを語らない。ただ、70年前の記憶をたどる中で偶然、同じ言葉が口をついて出た。「原爆は人類最大の犯罪よ」(和多正憲)

(2015年7月15日朝刊掲載)

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