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慕っていた兄 引率中に不明 元校長 初の8・6証言

 広島市南区の元比治山小校長、生信勇荘さん(79)が3日、中区の鯉城会館で被爆体験を初めて語った。市立第一高等女学校(現舟入高)教諭で原爆で行方不明になった兄の砂古国夫さん=当時(38)=を捜しての入市被爆。砂古さんについて「懸命に生きていた」と振り返った。砂古さんの教え子も駆け付け当時をしのんだ。

 66年前の8月6日、社会科教諭だった砂古さんは爆心地直近の材木町(現中島町)一帯の建物疎開作業に生徒を引率中、被爆死したとみられるが、遺骨は見つかっていない。

 当時中学1年だった生信さんは音戸町(現呉市)から母とともに市内に入り、捜し回ったが手掛かりはなかった。同校は教職員と生徒を合わせて市内の学校で最多の676人の犠牲者を出した。

 25歳離れ「親のように慕っていた」兄からは、竹とんぼ作りや水泳を教わった。8人きょうだいの末っ子だった生信さんが大学に進学できるよう母を説得してくれた。戦後、兄の姿を追い、教諭の道を志した。

 砂古さんの教え子で学徒動員が休みだった加藤八千代さん(82)=西区=は「授業が面白く、優しい先生だった」と懐かしんだ。兄が亡くなったとみられる平和大橋西詰め(中区)を訪れた生信さんは「せめて最期に会いたかった。原爆は恐ろしい。今後は兄のような人生があったことを語り継ぎたい」と話している。 (野田華奈子)

(2011年8月4日朝刊掲載)

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