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因島空襲の日誌 現存 警防団と教員の二つ 尾道

 終戦直前の1945年7月28日、尾道市の因島であった因島空襲の警報時刻などを記録した警防団日誌が現存していたことが、市への中国新聞の情報公開請求で分かった。因島消防署(同市因島土生町)に残っていた。また、因島南小(同)にも空襲当日の教員日誌が保管されていた。因島空襲は犠牲者数など不明な点が多い。戦後70年を経て確認された二つの記録文書について、広島県戦災史の編さんに携わった安藤福平・元広島県立文書館副館長は「克明で貴重な資料」としている。

 土生町警防団日誌は縦24センチ、横16・5センチの255ページ。39年10月から48年3月までで、空襲当日の45年7月28日は午前0時10分から午後10時半までに警戒警報が4回、空襲警報が5回出されたことや、その時刻を墨字で記す。「本日午前十一時四十五分ヨリ約七分間ニ亘リ因島工場爆撃ヲ受ケ相当損害アリ」とある。

 市消防局によると、土生町警防団は39年4月結成。日誌には、島内に軍需工場や兵器補給場があるため、警防団同士の連携強化が求められるとの記述もある。焼夷弾(しょういだん)投下を想定した訓練、町民約1500人の防空服の一斉点検なども記され、団員と町民の共同防火訓練の写真4枚も添えてある。

 因島空襲は軍需工場だった日立造船因島工場を中心に45年3月と7月の2回あった。調査している著述業青木忠さん(70)=同市因島椋浦町=は体験者の証言から3月は5人以上、7月は100人以上が死亡したとみる。これまで警防団日誌の一部のコピーは青木さんが持っていたが、原本の所在は不明だった。市消防局の溝川貢局長は「残っていたとは驚いた。警防団が島民の命を守るため、あらゆる手段を講じていたことに敬意を表する」としている。(新山京子)

因島空襲 尾道市の因島は1945年3月19日と同7月28日の2度、米軍機による空襲を受けた。日立造船因島工場と三庄工場が標的にされ、民家にも被害が及んだ。公式文書ではほとんど触れられておらず、被害の全容は分かっていない。2007年7月28日、市民の手で初めて「因島空襲犠牲者慰霊祭」が営まれた。

70年経て被害確認 因島空襲 日誌現存 警報時刻 詳細に記録

 戦後70年を経て尾道市で現存が確認された、因島空襲に関する二つの記録文書。安藤福平・元広島県立文書館副館長は「因島空襲について記した文書はほとんど見つかっていなかった。被害を証明する資料」と注目する。警防団の日誌は島の消防署に、教員の日誌は同じく地元の小学校の校長室に、ひっそりと保管されていた。(新山京子)

 安藤さんは警防団日誌の内容について「因島の工場は県内でも大規模な軍需工場の一つだった。ほかの地域と比べてより警戒心を持って熱心に訓練に励んでいた様子が分かる」と指摘。被害に関する簡略な記述については「空襲後の混乱で詳細に記す余裕がなかったのだろう」とみる。

 一方、教員日誌は「昭和二十年度日誌 土生国民学校」と表題があり、警防団日誌と同様に、7月28日の欄に警戒・空襲警報の発表や解除の時刻が細かく記されている。

 土生国民学校を前身とする土生小はことし3月に閉校。日誌は近隣2校との統合で開校した因島南小に引き継がれ、校長室に保管されていた。村上みどり校長は「空襲を恐れる子どもや先生の様子が目に浮かぶ。平和の大切さを伝えるために活用したい」と言う。

<7月28日の警報の発令・解除の時刻>

午前 0時10分 空襲警報発令
   0時40分  〃  解除
   0時50分 警戒警報解除
   5時50分 警戒警報発令
   6時00分 空襲警報発令
   9時00分  〃  解除
   9時50分 空襲警報発令
  11時10分  〃  解除
  11時30分 空襲警報発令
  11時45分から約7分間の空襲
午後 1時15分 空襲警報解除
   1時20分 警戒警報解除
   2時50分 警戒警報発令
   3時00分  〃  解除
   3時40分 警戒警報発令
   3時45分 空襲警報発令
   4時45分  〃  解除
   4時50分 警戒警報解除
   8時50分 警戒警報発令
  10時30分  〃  解除

*土生町警防団日誌による

(2015年7月15日朝刊掲載)

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