×

社説・コラム

ひと・とき 被爆作家原民喜のおい・原時彦さん 「鎮魂歌」の思い代弁

 「私が原民喜の著作権を継承するようにと遺書にあったので、必然的に民喜の代役を務めることになった」。広島市立中央図書館(中区)で「被爆70年 原民喜と私を語る」と題した講演で、こう切り出した。

 1905年、民喜は広島市で生まれた。少年時代、兄と家庭内同人誌を創刊。当時、家業は陸海軍向けの軍服を作っていた。「民喜は戦争反対の立場。同人誌を作ることで、苦悩から逃れていたのでは」と語る。

 おじの民喜との手紙のやりとりも紹介。広島県北の学童疎開先におじから届いたのは、尾道高等女学校の運動会の写真が載る絵はがき。同女学校は、民喜の妻の母校で、妻はすでに他界していた。「妻の遺品だろう。それを僕宛ての手紙に使った。後継者にと、その頃から考えていたのかもしれない」と想像する。

 そのおじと原爆投下後、焼け跡の自宅に陶器類の掘り出しに行った。「行き帰りの道すがら、おじと言葉を交わした記憶がない」

 講演の最後、原爆や戦争を人類全体の問題として捉えようとした民喜の小説「鎮魂歌」を挙げた。「平和をどう守っていくか。被爆70年の今、ぜひ読み直してほしい」と力を込めた。(石井雄一)

(2015年7月16日朝刊掲載)

年別アーカイブ