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連載・特集

生きて 児童文学作家 那須正幹さん(1942年~) <2> 被爆の記憶

ミカンの缶詰 フーフー

 父茂義、母トキの長男として、広島市庚午北町(現西区己斐本町)に生まれた。3人きょうだいの末っ子。次姉とは九つ離れていた
 原爆以前の記憶もあるんよ。一つは、防空演習でおふくろが、けが人役として担架に乗せられた。それを見てわあわあ泣きだしたら、とうとうおふくろが降りて。その時、やれやれという顔をしたのを覚えとる。

 3歳の誕生日からちょうど2カ月。あの日を迎えた。父は広島電鉄家政女学校に出勤し、長姉は学徒動員で広島地方専売局に。次姉は学童疎開で世羅郡にいた
 家には、おふくろと僕の2人。後から聞いたけど、ちょうど近所の奥さんが来とった。おふくろは縁側の戸袋の陰に日をよけて腰掛け、僕はその背中におぶさるように立って。その時、爆発があった。おふくろと僕は、戸袋の陰におったから、ほとんどけがはなかったけど、その奥さんは、半身大やけどされたという。

 その日、ひどい雨が降って。爆風で屋根が吹き飛んだから、押し入れで雨宿りしながら、桃太郎のお話が載った本を眺めた。それが、その日の最初の記憶。多分、姉の教科書で、桃太郎がカラフルなよろいを着て、鬼も真っ赤に塗ってあったような印象がある。ところが、大人になって、当時の教科書を見たら、青と黄の2色だけ。周りが真っ暗で、2色でもそういう記憶の残り方をしたんじゃろうね。

 後からおふくろが言いよったけど「正ちゃんは、何か大きい音がしたら、飛んで帰って押し入れに隠れよった」と。僕自身は記憶にないけど、一種のトラウマかもしれんね。

 一番印象に残っとる思い出は、当日の午後だろう、大八車に缶詰を山積みにしたおじさんが市街地の方から来て、水をくれと。ほいで「食べなさい」と、ミカンの缶詰をくれた。開けると、熱うて。甘い物がない時代。フーフーしながら食べた。今、考えれば、火事場泥棒よね。

 父は教え子を捜して2週間、帰宅しなかった。長姉禮子(のりこ)(2002年に73歳で死去)も動員先で被爆
 姉貴は、どこをどう逃げたのか。その晩のうちに帰ってきたんじゃけど、原爆のことは死ぬまで話さんかったね。「私は忘れた」と。同じ学校の生徒が亡くなって、生き残った負い目があったんかなと思う。

(2015年7月16日朝刊掲載)

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