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連載・特集

つなぐ~戦後70年 戦争の記憶 学徒動員の光海軍工廠で空襲に遭った 繁光志摩子さん=山口市

防空壕殺到 級友ら犠牲 協力当然 信じ込まされ

 終戦前日の悲劇として語られる光海軍工廠(こうしょう)の空襲。旧日本軍のアジア侵略を支えた巨大な兵器工場が1945年8月14日、米軍のB29爆撃機によって破壊され、軍人51人、軍属554人とともに、133人の動員学徒が命を落とした。

 中村高等女学校(現中村女子高、山口市)の生徒383人は45年4月から、工廠に動員された。戦況の悪化から多くの男性が兵士として召集されたため、労働力が不足。10代の子どもたちが軍需工場や建物疎開の現場などへ派遣された。

 当時、本科の4年生だった。配属は砲熕(ほうこう)部の精密工場。爆弾の部品を仕上げる作業に従事した。

建設 突貫工事

 8月14日は晴天だった。午前中に空襲警報が出て、解かれたのは正午ごろ。精密工場そばの建物2階の食堂に行こうと階段を上がっている時だった。「待避ー、待避ー」。B29の大編隊の襲来を知らせる鐘がカンカン、カンカンと鳴り始めた。

 あらかじめ決められた防空壕(ごう)に入ろうと、同じ工場で働く友人と手をつなぎ走った。工廠は埋め立て地に突貫工事で建設されたため、防空壕の壁は崩れやすかった。中に入ったものの、しばらくすると危ないから出るよう促された。

 「ザラザラ」。低空飛行の編隊が迫ってくる音は確か、そう聞こえた。手をつないでいた友人ともはぐれ、砂ぼこりの中を一人逃げ惑った。「工場までの決められた道しか知らず、どこをどう行けばよいのか分からなかった」。血みどろになった男性、倒れた馬が目に飛び込んできた。入れる防空壕を探した。

 「意地悪みたいに誰よりも先に入ろうとした。必死だった」。人を踏みつけるように中へ入り、目と耳をふさいだ。母親を呼ぶ声が聞こえ、つられて自分も悲鳴を上げた。

 4カ所の防空壕に入っては出るよう促された記憶がある。後に、自分が2番目に入ったと思われる防空壕がつぶれ、多くの人が亡くなったことを知った。「私の下にいた人たちが亡くなったかもしれないと思うと申し訳なくてつらい」

 工廠を出て、寮に帰ったのが夕方だった。翌日、工廠に行くと、建物がめちゃくちゃに壊れていた。そこからの記憶ははっきりしない。中村高女では33人が犠牲になった。

 一緒に動員された同級生の杉村純子さん(86)、本科3年生だった山根君子さん(85)、山内マサエさん(84)は戦後も同じ山口市に暮らす。毎年8月14日、中村女子高である慰霊祭に4人でそろって参列。同級生たちの無念の死を悼む。

体験談を本に

 山根さんは空襲の翌日、防空壕で生き埋めになった同級生たちの掘り起こしと海岸での火葬に立ち会った。遺体は髪がほとんど残っていなかったり、傷みが激しかったりしたのを覚えている。

 4人ともひ孫がいる歳になった。一緒に動員学徒の体験談を集めて本にしたこともあった。銃後の子どもまで巻き添えにした先の戦争。「戦争に協力することが当たり前だと信じ込まされていた。そんな仕組みは二度とできてほしくない。生き残った私たちが伝えていかなければ」と話した。(柳岡美緒)

光海軍工廠
 海軍が呉に匹敵する大軍事都市建設を目指し、「光」と名付けて現在の光市沿岸部に1940年開庁した巨大な兵器工場。市名にもなった。当初491人だった職員・従業員は、45年には3万人を超え、2割強の6523人が県内の中学校や女学校などから学徒動員された。最終的な敷地面積は約290ヘクタールとされ、大砲や魚雷、爆弾などを製造。人間魚雷「回天」も造った。跡地には現在、新日鉄住金や武田薬品工業の工場がある。

 シリーズ「戦争の記憶」は終わります。

(2015年7月17日朝刊掲載)

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