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社説・コラム

人種隔離政策撤廃に尽力 ラプスレー司祭に聞く 「記憶の癒やし」争い防ぐ 

 南アフリカの人種隔離政策(アパルトヘイト)撤廃闘争に身を投じたマイケル・ラプスレー司祭(66)が広島市を訪れた。25年前、爆発物による暗殺未遂で両手と右目を失った。現在は南ア・ケープタウンを拠点に、紛争や暴力の当事者が体験を語って「癒やし」「和解」を模索するワークショップを開いている。故ネルソン・マンデラ大統領の盟友でもあった司祭に聞いた。(金崎由美)

 ―自ら希望しての被爆地訪問だと聞きました。
 広島は世界最悪の「人道に対する罪」が刻まれた場だ。筆舌に尽くしがたい人間の苦しみに思いを致したかった。被爆者の小倉桂子さんから体験を聞いた。自ら語るまで何十年もかかったという。戦争や暴力で心に傷を受けた人は記憶を封印しようとする。だが本当は語るべき言葉を持っている。小倉さんの軌跡に希望の光を見た思いになった。

 ―自身も最悪の暴力の被害者です。
 赴任先の南アフリカでアパルトヘイト反対を各地で説いていた1976年、国外退去処分を受けた。レソトを経てジンバブエに拠点を移していた90年、受け取った手紙が爆発した。天井が崩れるほどの威力。生きていること自体が奇跡だろう。私の名が南アフリカの暗殺者リストにあったことが、後に分かった。

 ―それでも人生に絶望しなかったのはなぜでしょう。
 死のふちにいた時、世界中から支援と祈りが届いた。自分はこんなに愛されている。勝ったのは生きている私だと思った。せっかく命をつないだのに心が恨みに満ちていては「魂」が殺されたも同然だ。もだえ苦しみながら両手がない現実を受け入れた。魂の被害者で居続けるより、同じように傷ついた人たちに寄り添いたいと思った。

 ―現在の活動にもつながっていくのですね。
 アパルトヘイト廃止翌年の92年、南アフリカに帰って人種隔離政策下の暴力の被害者をケアする部署の担当司祭になった。後に「記憶の癒し研究所」を設立し、ルワンダ大虐殺の当事者や米国の戦争帰還兵など対象を広げている。

 ―「記憶の癒やし」とは何を意味するのでしょうか。
 宗教者として重視するのは心理学や精神医学ではなく、「倫理」や「魂」という面から心的外傷後ストレス障害(PTSD)などに苦しむ人と向き合うこと。記憶にふたをせず、体験をめぐる対話を通して「過去」を解放するプロセスだ。

 癒やしが必要なのは被害者だけでない。戦争になると人々は宗教的な倫理を踏み越えて殺りくに加わる。加害者は自責の念に苦しむが、自らの行いを率直に語るのは難しい。それでも過ちを認め、心から謝罪をする。すると被害者は彼らも痛みを抱える人間だと気付き、許しと和解を探る一歩となる。戦争被害をめぐる日本とアジアの関係にも言えることではないか。

 ―国家間の戦争の予防にもなるでしょうか。
 南アフリカではアパルトヘイトゆえの抑圧や暴力は終わったが、地域や家庭内で暴力がまん延している。かつての被害者が相手を傷つけるし、その逆もある。暴力の連鎖が戦争の根幹にはある。限りなき負のサイクルは断ち切らなければならない。今回の来日で実感したのは、国家レベルでは日本が世界の手本であること。憲法の平和主義は戦争という暴力の連鎖からの決別宣言だ。放棄するなら世界的な損失にほかならない。

 49年ニュージーランド生まれ。73年南アフリカに派遣。アフリカ民族会議(ANC)に加わり、ジンバブエにいた90年、暗殺未遂事件に遭う。今回は「記憶の癒し アパルトヘイトとの闘いから世界へ」の出版に合わせ、日本聖公会の招きで初来日。東京都内などで講演した。

(2015年7月17日朝刊掲載)

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