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連載・特集

『生きて』 児童文学作家 那須正幹さん(1942年~) <3> 己斐小の思い出

手塚ファン 漫画家志す

  1949年、己斐小(現広島市西区)に入学
 幼稚園に行ってなかったから、小学校に入った途端、あらゆる病気をしてね。1年生の時、冬休みが終わる前の日に、ボブ・ホープが出ていた映画「腰抜け二挺拳銃」を見て帰ると、大熱が出た。40度以上が2週間くらい続いて。お医者も、もう駄目じゃろうっていうほど。じゃから、1年の3学期はほとんど学校に行かんかったなあ。

  少年誌を購読し、手塚治虫の熱烈なファンだった
 4年生から、「少年クラブ」を取りだした。その時、手塚治虫の「ロック冒険記」が始まった。同じ頃「鉄腕アトム」も連載スタートし、友達と雑誌を交換して読んだね。

 5年か6年生の時、手塚治虫に「弟子にしてください」って手紙を出した。そしたら、「義務教育だけは受けてきなさい。デッサンの勉強をしっかりやりなさい。一般教養を身に付けなさい」と返事が来て。もう大感激。学校でみんなに見せびらかすうちに、行方不明になった。あの頃は漫画家になりたかった。

 4、5年の担任だった石丸二三恵先生も印象深い。学校近くの茶臼山に行った時、先生が「ここにお城があったのよ」と教えてくれた。城といえば、大きな平城のイメージ。こんな所にも城があったのかとびっくりして。石垣もあった気がする。歴史がすごく身近になった気がした。

  6年生で、いじめに遭う
 何で、いじめられたのか。今思えば、生意気じゃったことはある。先生に口答えをして、校長室に呼ばれたこともあったからね。

 相手は3人組の、まあ、ボスは1人じゃけど。「那須は生意気じゃ」言うて、倉庫みたいな所に連れ込まれて。5、6人と1人ずつ、殴り合いのけんかをする。こっちは1人。あのころはね、泣いたら負け。ところが、僕は意地っ張りじゃから、殴られても全然泣かんかった。最後は、遊び時間に運動場で、下着まで脱がされて。あの時は泣いたなあ。そのまま家に帰ったね。

 じゃから、弱い者いじめだけは絶対せんかった。下級生がいじめられよったら、「やめーや」いうタイプだった。そんな彼らとも今では、時々一緒に飲む仲なんだけどね。

(2015年7月17日朝刊掲載)

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