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連載・特集

ヒロシマ70年 第1部 まちの原点 <4> 焦土に届けた命の水

「不断水」の誇り脈々と

 「不舎昼夜(ちゅうやをおかず)」。絶え間ない川の流れを表す論語の一節が、赤れんがの被爆建物の玄関そばに掲げられている。広島市東区の牛田浄水場内にある旧送水ポンプ室(現市水道資料館)。70年前のあの日も、市内に「命の水」が枯渇することはなかった。「広島に断水がなかった歴史を伝える大切な場所」。復興期を支えた市水道部(現市水道局)給水課元職員の石田吉秀さん(86)=佐伯区=は誇らしげだ。

 送水ポンプ室は爆心地から約2・8キロ。原爆の爆風で屋根や窓は吹き飛び、市内唯一の配水池へ水をくみ上げる7台の電動ポンプは全て停止した。池はほぼ満水だったため、ただちに市全域が断水するのは免れたが、このままでは、いずれは枯れる見通しだった。

 そんな中、いち早く駆け付けて重油で動く内燃機付きの予備ポンプを稼働させたのが、給水課技手の堀野九郎さん=当時(51)=だった。やけどを負った体でポンプを応急修理。午後2時に配水池への送水を再開させた。これにより、市街地の断水は免れた。

復旧作業に汗

 水道部の闘いは戦後も長く続く。焼け野原の至る所で水道管が破れ、全壊した家屋の給水栓から水が流れ出ていたからだ。1947年に入庁した石田さんは「ざるの中に水を注ぐようじゃった」。給水量の大半が漏水する異常事態だった。

 復旧は気の遠くなる地道な作業。新人の石田さんは大八車や自転車に作業道具を積み込み、先輩職員と汗だくになって焦土を回った。破損した給水栓からの漏水を防ぐため管を金づちでたたいてつぶしたり、円すい状の木栓を管の穴に打ち込んだり…。復旧作業の合間に、あの日の堀野さんの活躍を先輩たちから伝え聞いた。

 当時、本川沿いの基町地区(現中央公園付近)には「原爆スラム」と呼ばれたバラックが軒を連ね始めていた。給水設備のないこの地区に、5世帯に一つの共用栓を引いて水を送る作業も、石田さんが担った。「住民から感謝されたんじゃが、本当に復興できるのかと思いながら働いとった」

 市の復旧工事は51年ごろにピークを迎えるが、石田さんが街の再興の兆しを感じたのは、被爆から10年を経たころという。「どの家庭も貧しかったが、ようやく水だけは存分に飲めるようになった」と記憶する。

逸話 紙芝居に

 老朽化したポンプ室は85年、資料館に衣替えした。93年には市の被爆建物に登録された。耐震工事中のため来年3月まで閉館中だが、再オープン後は、被爆当時のポンプの運転日誌などを展示する。堀野さんの逸話は小学校の教材でも紹介され、市水道局は「命の水」と題した紙芝居も作った。

 堀野さんは戦後、市が66年に発行した「広島市役所原爆誌」に、手記を寄せている。「あの非常の時、(市民が)防火栓の水を飲んでいる姿を見た時は、水のありがたさとともに、自分たちの任務の重大さをしみじみと感じた」

 石田さんは思う。「もし、自分が堀野さんと同じ状況なら同じ行動を取った。それは今の職員たちも同じはず」。広島市に水道が開通した1898年から続く「不断水」の誇りは、後輩たちに脈々と受け継がれている。(和多正憲)

(2015年7月18日朝刊掲載)

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