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連載・特集

ヒロシマ70年 第1部 まちの原点 <5> 記憶頼りに郵便物配達 

安否確認の生命線守る

 高さ3メートルほどの御影石の背面に、200人を超す名前がびっしりと刻まれている。広島市南区の多聞院にある「広島郵便局原爆殉職者之碑」。元郵便局員の上本保之さん(89)=南区=は毎夏、ここを訪れる。「1発のピカドンで同僚たちは消えたんじゃ」。それは、広島以外に暮らす人たちが家族や友人の消息を郵便で尋ねるすべも原爆が奪ったことを意味した。

「罹災戻し」の印

 上本さんが1942年に採用された逓信省の広島郵便局は現在の原爆ドームそばの細工町(現中区)にあった。れんが造り3階、時計を頂くランドマークは45年8月6日、爆心直下で廃虚と化した。約400人の職員や動員学徒のうち、局舎にいた215人は爆死したとみられる。4月に徴兵されていた上本さんが復員後の8月17日に駆け付けると、移転を知らせる立て看板が跡地にぽつんとあっただけだったという。

 被爆5日後には、非番などで助かった職員たちが千田町(現中区)に仮事務所を開いて業務を再開していた。岩国市など近隣市町の局からも手助けに。印鑑や通帳がなくても顧客の「信用」だけで貯金の払い戻しに応じ、窓口には長い列ができた。

 でも、郵便物は―。復職した上本さんは仮事務所で、全国から殺到した安否確認の手紙の仕分けに追われた。集配担当の職員は自転車が1台もない中、かつての街の記憶を頼りに焦土を歩き回って宛て所を捜した。でも、多くは行方不明。持ち帰られた手紙に上本さんは「罹災(りさい)戻し」のゴム印を押し、「ひょっとしたら受取人が取りに来るかもしれんから」としばらく事務所に留め置いた。

 秋には市中心部にバラックが目立ち始めたが、どこに誰が住んでいるか分からない状態。町内会ごとにまとめて配り、地域に通じた町内会長たちに配達を代行してもらった。「携帯電話もない時代。市民の通信手段を守ろうと必死だった」と振り返る。

浄財で慰霊碑

 翌46年9月、基町(現中区)に新局舎が完成。49年には、国の「広島平和記念都市建設法」公布の記念切手が発行され、戦後初の年賀はがきの販売も始まった。

 この年に広島逓信局(現中区)へ異動した上本さんは管内の郵便局の資材管理を担当するようになった。局員の制服や配達用の自転車とともに、郵便ポストの設置要請が増えていたという。「暮らしが落ち着いてようやく、便りの一つでも書けるようになったんじゃろう。焼け跡に立つ真っ赤なポストが、平和な暮らしの象徴に感じられた」

 上本さんにとっての戦後の区切りは、53年8月6日の原爆の日だった。全国の郵便局員からの浄財で、多聞院に慰霊碑が建立され、その中に18歳で将来を絶たれた同期の金原昭さんの名前も刻まれた。

 「近眼で兵役を免れ、徴兵される私を『頑張れよ』と送り出してくれた。兵隊の私が生き延び、郵便業務に尽くしていた彼が死んだ」。上本さんは碑を訪れるたび、同僚も、職場も奪った非道を伝え続けようと思う。だれもが自由に手紙をやりとりできる日常に、掛け替えのない幸せを感じながら。(和多正憲)

(2015年7月19日朝刊掲載)

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