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連載・特集

ヒロシマ70年 第1部 まちの原点 <6> 青空教室 

自由の風通う 困窮と改革 試練の日々

 教員生活40年。スタートを切ったのは焦土の広島だった。「青空教室」で教えた。食べ物も着る物も圧倒的に足りなかった。「ただ、どこかほっとしていた」。元中学校長の升田猛さん(90)は広島市東区の自宅でアルバムを繰りながら、その理由を語った。国のためなら命もささげよ―。自らが受けた教えを説かなくてよくなったから。

胸に母の一言

 満州事変が起きた1931年に白島尋常高等小(現中区)へ入学。軍国主義一本やりの教育を受けた。教科書にも唱歌にも「忠君愛国」がうたわれていた。広島県師範学校(現広島大)に進むと、「教練」の授業で銃の使い方を覚えた。44年からは、動員先の呉海軍工(こう)廠(しょう)で魚雷や砲身を造る毎日。その生き方に「納得してもいた」。45年4月の召集にも動揺しなかったという。

 ただ、旅立つ前夜の出来事を忘れられない。戸坂村(現東区)の自宅で母の久子さんに千人針を渡され、久々に枕を並べた。手を握られ「もう一度、この家にお帰り」。9月、福岡から復員するとその母はいなかった。原爆投下翌日にめいを捜しに市内へ。帰宅後も被爆した知人48人を自宅に受け入れ、看護するうちに倒れたという。8月31日に他界し、荼毘(だび)に付されていた。42歳。「放射線にやられたんだろう」

 悲しむ間はなかった。師範学校から繰り上げ卒業を言い渡され10月、今の祇園小(安佐南区)へ赴任。翌年には荒神町小(南区)へ。校舎は全壊し、バラックをついたてで仕切って授業した。「よその学級の声が筒抜け。ほとんど青空教室だったが、子どもは伸び伸びと学んでいた」

像建設へ活動

 連合国軍総司令部(GHQ)の指導の下、軍国主義に通じる教材を焼き、墨で塗った教科書を使った。GHQの適格検査に通らないと教壇に立てず、再教育も受けた。上意下達から民主主義へ。教育改革の波に戸惑いながらも、子どもたちが自ら考え、意見が言えるよう指導した。

 47年から義務教育になった中学校で理科を教えた。第一中(現段原中)を経て51年に幟町中(中区)へ。そこでもなお子どもたちを苦しめる原爆のむごさに直面する。顔を焼かれた女子生徒を受け持った。親を奪われ、施設から通う子もいた。物心両面の支援に心を砕いた。「見かねた裕福な家庭が月10円、こっそりカンパしてくれて」。靴やノートを買い与えた。

 幟町中に迎えるはずだった佐々木禎子さんが55年に白血病で亡くなると、今の原爆の子の像(中区)の建設運動に火が付き、生徒会とともに活動に携わった。肉親や友人を失った生徒も、軍国教育を受けた教員も、戦争の愚かさは身に染みていた。「だから、みな本気だった」。58年、除幕を見届けた。

 復興期を共にした当時の生徒とは、85年に定年退職後も密に連絡を取り合う。19日には、幟町中時代の教え子が中区で開いた被爆証言会に招かれ体験を語った。「戦争はむなしい。核兵器が抑止になるというが、使われたら人類は滅びる。地球からなくすために自分たちがどうすればいいか考えてほしい」。万感の思いを込めた。(田中美千子)

(2015年7月20日朝刊掲載)

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