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連載・特集

ヒロシマ70年 第1部 まちの原点 <7> 12歳商店主 一家養う

駅前の市場 発展支える

 1945年8月下旬。被爆から3週間ほどで、国鉄広島駅(現広島市南区)の南側には早くも青果などを売る露店が並び始めた。「広島の台所」と呼ばれた駅前闇市の起こりだ。翌46年6月、その路地にむしろを広げ、商売を始めた12歳の少年がいた。

「何でも売った」

 「きょうだいを食べさせる。それしか頭になかった」。石風呂明三(いしぶろあけみ)さん(81)=南区=は振り返る。「つらいばかりで思い出したくない」という店主としての出発は、米国が落とした一発の原爆がもたらした。

 松原町(現南区)でノリ店を営んでいた両親と7人きょうだいの大家族だった。あの日、2番目の姉=当時(17)=は動員先に向かい、亡くなった。屋上で全身やけどを負った父=(46)、店内にいた母=(41)、店を手伝っていた一番上の姉=(19)=は寝たきりに。集団疎開先の久地村(現安佐北区)から戻った石風呂さんが、長男として一家を養うために出店するのは自然の成り行きだった。

 身を寄せていた広島県海田市町(現海田町)の伯父方と店を自転車で行き来。途中で手に入った物は「何でも売った」。全国からやって来る行商から買いつけるノリやしいたけ、つくだ煮…。海田の進駐軍がくれたチョコレートやガム、軍服もよく売れた。値段は周りの大人をまねて付けたという。

 だが、暮らしはすぐには上向かず、一家で雑草を食べて飢えをしのいだこともある。47年に両親と一番上の姉が相次ぎ逝き、とうとう、きょうだい5人だけになった。

 48年に両親の店舗跡に2階建てのバラックを建て、乾物店として本格的に商いを始めたのもつかの間、49年の一帯の火災で全焼した。

大人とけんか

 移転先の市場内では、トラブルも多く、大人にけんかをふっかけられた。途中から同居した伯母トモさん(84年に93歳で死去)がいつも一喝して追い払ってくれた。所帯を持ち、息子、娘が生まれる中で商売を軌道に乗せ、67年に駅前の一等地、荒神市場(後の愛友市場)に落ち着いた。99年にがんを患って店主を弟に譲った後も、2013年に駅前の再開発で閉店するまで手伝った。

 「好きで選んだ人生じゃないが、悲しみに浸る余裕もなかった」。闇市から市場へ、復興するに連れて増した駅前のにぎわいを支えたのは、石風呂さんをはじめとした商人たちのハングリー精神だった。駅前に負けじと、46年に復興を本格化させた本通り商店街(現中区)や、駅前への卸売りも貴重な収入源だったタカノ橋商店街(同)の発展にもつながった。

 石風呂さんは今も、広島駅前に暮らす。来年の完成を目指す高層ビル建設のつち音を聞き、変わる町並みを見つめている。「町には時代ごとの役割がある」と、面影の消えたかつての「台所」に特別な感慨はない。「もっとにぎやかになりゃええなあ」。焦土に生きる市民の暮らしを支えた駅前が、平和な広島とともに繁栄し続けるよう願っている。(樋口浩二)=おわり

(2015年7月21日朝刊掲載)

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