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社説・コラム

『言』 戦災と風化 個々の犠牲に思いはせよう

◆東京大空襲・戦災資料センター主任研究員 山辺昌彦さん

 人類史の悪夢である広島・長崎の体験ですら継承が難しくなっている。まして列島各地の空襲被害の多くは中国地方を含め、実態解明が不十分なまま70年の歳月に埋もれつつある。山辺昌彦さん(69)は13年前に民間募金で首都の下町に開館した東京大空襲・戦災資料センターの主任研究員で、各地の戦災にも詳しい。伝え残す意味や曲がり角を迎えた調査の課題を聞いた。(聞き手は論説副主幹・岩崎誠、写真・高橋洋史)

    ◇

 ―風化は進んでいますか。
 空襲体験の風化が言われてから何十年もたちます。仕方ない面もあるでしょう。その中でも体験者の協力を得て実相を明らかにし、事実を正確に伝える基盤を今からでもつくることが必要です。

 ―東京への空襲は、解明が進んでいる方ですね。
 私たち資料センターの館長である早乙女勝元が「東京空襲を記録する会」をつくったのは1970年。体験者の証言のほか東京都、消防、警察の資料を集め、米国の戦史資料も使って研究を進めてきました。近年、新たに掘り起こされたのが陸軍の宣伝物の制作を担った「東方社」のカメラマンが残した被害写真です。研究の集大成として、1400枚以上の写真を網羅した被害記録をことし出版したばかりですが、学校や病院など非軍事施設を破壊し、住宅地を焼き払い、民間人を殺りくする非人道的さをよく示しています。

 ―45年3月10日の大空襲が、やはり象徴的ですね。
 あの下町の大空襲で1日で9万5千人を超える人が亡くなりました。ただ東京空襲の全体像は地元でも知られていません。東京の区部が被害を受けた空襲は60回を数えました。合わせて10万5400人の遺体が確認され、原爆を除けば本土の空襲死者の半分です。

 ―一連の首都爆撃を、どのように分析していますか。
 B29による空襲は44年11月に本格化しました。最初は軍需の飛行機工場が重点爆撃の対象で、3月10日を境に無差別爆撃へと切り替わりました。米国がB29を増産し、日本の木造家屋を焼くための焼夷(しょうい)弾を開発して大量生産し、準備がそろったのがその時期です。綿密に人口密度を計算して木造が密集する地域を狙ったのです。それ以前の工場爆撃でも実験的に焼夷弾を市街地に落としていました。緻密な戦略にほかなりません。

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 ―原爆投下にもつながる発想ではないでしょうか。
 米国の戦略爆撃の大きな狙いが日本国民の戦争継続への意欲をくじくことでした。だが首都を焼き払っても降伏しない。だから他の大都市、次に全国の中小都市の空襲につながり、ついには広島・長崎に至ったといえます。

 ―民間人への爆撃は既に国際法で禁止されていたはずです。
 米軍の言い分はこうでした。空襲の対象は戦争を支える産業都市であり、民間の町工場も非軍事ではない。住民も何らかの形で関わっているのだから、焼き殺して構わないと。そんな理屈を容認したことが戦後、ベトナム戦争などで空爆が繰り返されてきたことに結び付いたと考えています。

 ―重い指摘です。日本空襲は、やはりトータルで考える必要がありますね。ただ個々の地方の調査の現状は心もとない。
 米側の爆撃命令書や作戦任務報告書などの公開で調査は進みましたが、全体では停滞気味といってもいいでしょう。歴史研究者がテーマとすることが少ない。体験者の受け止めに基づく正確ではないものも語り伝えられています。

 ―新しい材料は、もう見つからないのでしょうか。
 もちろん頑張っている地域はあります。愛知の豊橋空襲では1年後の追悼式の名簿を点検することで多くの犠牲者の名前が分かりました。既にある資料を見直す。体験者の証言を正確に読み直す。できることはまだあるはずです。

 ―東京の空襲に関しては新たな取り組みがなされたとか。
 私たちのセンターも含む研究者グループの「いのちの被災地図」です。東京都の職員が個人で持っていた犠牲者名簿が寄贈され、どこに住んでいた人がどこで亡くなったか分析しました。死者には20歳未満が多いなど、新たに見えてきたものがあります。

 ―ただ個人情報も絡むだけに、行政の手による調査の役割がもっと大きくなるはずです。
 民間でもできることはやるべきですが、公的機関の責任もあるでしょう。その点でいえば空襲資料の展示室をつくり、証言や資料を集めている岡山市の取り組みは大きな意味を持ってきます。平和博物館のような施設がなくても、既存の歴史博物館や資料館で戦災をもっと調査し、現物資料も収集して展示することが必要です。さまざまな手段で後世に残す社会教育が重要となるからです。

 ―地域の歴史として語り継ぐとともに、一人一人の犠牲の意味に思いをはせたいですね。
 自治体が持つ名簿を公開すべきです。東京都は8万人ほどの犠牲者名簿をつくっていますが個別の問い合わせに応じるだけ。一方で大阪空襲の展示をする「ピースおおさか」は名簿公開ととともに死者の名をモニュメントに記しています。千葉や神戸などでも碑に名を刻む動きが広がってきました。

 ―名前を把握すれば今後の補償などにも役立つはずです。被害の救済についてどう考えますか。
 本来なら原爆の直爆死も空襲死者も重みは同じでしょう。実は戦争中は「戦時災害保護法」があってそれなりに機能し、東京の空襲被害も一定に救済されています。しかし占領下になって廃止され、一般的な社会保障である生活保護法に組み込まれました。軍人軍属だけを救済し、民間被害が切り捨てられたのはやはり問題です。

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 ―救済を求める運動もありましたが、実っていません。
 ことしから被災者による運動を研究しています。空襲の調査活動が救済運動へ必ずしも広がらなかった面があると思うんです。政治的にも一つになれなかった。70年代から80年代にかけて野党側から一般戦災の救済法案が繰り返し国会に出ましたが、通らなかった。東京や大阪の被害者による訴訟も敗訴に終わり、民主党政権下で議員立法の救済を目指した国会議員連盟もうまくいきませんでした。

 ―救済の枠組みがないから行政が被害を把握せず、それが風化の原因にもなっているのでは。
 法律がないから調査しないとの言い分はあるでしょう。しかし、それではなかなか進まない。はっきり名簿をつくる姿勢を示し、公開して正しいかどうかを検証していくことが求められます。

 ―平和憲法の理念が揺らぎつつあるからこそ、広く戦災に目を向けるべきではないでしょうか。
 戦争が一般の民間人、とりわけ弱い立場の人たちに犠牲をもたらすことを空襲は物語っています。戦時中の日本を見ると、米国に復(ふく)讐(しゅう)すべきだという考え方は確かにありました。しかし戦後の日本は空襲をもたらすような戦争を二度と繰り返してはならないとの思いに転換しました。元に戻すようなことはあってはなりません。語り継ぐ意味はそこにもあるのです。

 ―空襲というものの本質も見詰め直すべきでしょうね。
 ドイツによるゲルニカ(スペイン)空襲はよく知られています。そのドイツも何万という人たちが亡くなる空襲を米英軍から受けました。東京大空襲の1カ月前のドレスデンへの焼夷弾爆撃もそうです。日本にしても中国の重慶に無差別爆撃を繰り返しました。手を取り合おうと東京の空襲被害者と重慶の人たちは交流を重ねていますし、私たちも向こうの博物館と交流しています。戦争への想像力が失われている今、被害の共通性を考えていくことも大切です。

やまべ・まさひこ
 東京都杉並区生まれ。早稲田大大学院文学研究科(日本史専修)博士課程単位取得退学。豊島区立郷土資料館学芸員、立命館大国際平和ミュージアム学芸員を経て06年から現職。専門は日本空襲と平和博物館。戦没学生をテーマにした東京のわだつみのこえ記念館学芸員も兼ねる。編集を担った「決定版 東京空襲写真集」(勉誠出版)が1月に出版された。

東京大空襲・戦災資料センター
 「東京空襲を記録する会」と財団法人政治経済研究所が呼び掛け、2002年に空襲被害の大きかった江東区北砂に開館した民営施設。平和学習の場であるとともに、国の科学研究費も生かした戦災調査の拠点。各地の地域史などの集計によれば原爆を除く民間の空襲死者は約20万3千人に上る。

(2015年7月22日朝刊掲載)

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