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核なき世界 今こそ行動

「被爆者から何学んだ」 写真家・大石芳野さん

 ヒロシマやチェルノブイリを撮り続ける写真家の大石芳野さん(67)=東京都武蔵野市=が今年も広島市を訪れ、被爆者たちを取材している。ただ、「今年は重たい」と語る。東日本大震災後、福島第1原発周辺の町村に3度入り、住民の苦しみを目の当たりにした。「私たちは被爆者から学んできたはずなのに…」。自問を繰り返し、被爆66年の夏にカメラを向ける。

 初めて福島に入ったのは5月3日。計画的避難区域の飯舘村、浪江町などを訪れた。人影の消えた里。サクラ、スイセンなどが咲き誇っていた。「目の前の風景が、何度も訪れたチェルノブイリと重なった」

 カーテンが閉ざされた家々を訪ねた。牛を守るため乳を搾っては捨て続ける酪農家、ビニールハウスで育てた野菜までも出荷できない農家…。「深い嘆きに胸がえぐられる思いがした」と振り返る。「私たちは核の恐ろしさを知っていたのに…。原発の危険性を考えようとせず、人任せにしてきた」

 27年前からほぼ毎年、原爆の日を前に広島市を訪れ、被爆者に取材を重ねてきた。5日、中区のカフェで河内政子さん(82)=東区=を取材。「父、母、姉の死を無駄にせず、次世代につなげたい」。その言葉に何度もうなずいた。

 自身、昨秋に大けがをし、体調は優れない。だが、広島の後は再び福島に向かう。「人ごとではない。私たちは、核の被害に遭った人々の苦しみとつながらなくては」。写真家としてだけでなく、今を生きる一人の人間として。ヒロシマ、フクシマと向き合い続ける覚悟だ。(西村文)


「原子力政策に強引さ」 京大の今中助教 広島で討論出席

 広島の被爆2世で、原発の危険性を訴えてきた京都大原子炉実験所助教の今中哲二さん(60)が5日、広島市中区で、日本の原子力政策について「政治とカネの力で無理やり進めてきた」と批判した。新聞労連などが開いた平和フォーラムのパネル討議で発言した。

 今中さんは原爆で祖母を亡くし、母親も被爆者。原子力の平和利用に魅力を感じて大阪大で原子力工学を専攻した。しかし相次ぐ原発トラブルに疑問を覚え、現在は「原発を止めるために研究を続けている」という。

 放射線の専門家とジャーナリストを加えた3人のパネル討議では、「福島で今起きていることは、チェルノブイリ原発事故(1986年)と同じ」と説明。国が定めた原子炉の安全設計審査指針について「都合の悪いことは、初めから考えないようにしている」と指摘した。

 フォーラムには全国から報道関係者約50人が参加した。(下久保聖司)


脱原発へ全国組織 福竜丸の元乗員らが結成

 福島原発事故を受け、全国の平和運動家や被爆者たち約50人が5日、「すべての原発いますぐなくそう!全国会議」を結成した。広島市の東区民文化センターで集会を開き、国内全ての原発の廃炉を求める1千万人署名に取り組むとした。

 集会に先立ち、1954年の米国のビキニ水爆実験で「死の灰」を浴びた第五福竜丸の乗組員だった大石又七さん(77)たち5人の呼び掛け人が記者会見。大石さんは内部被曝(ひばく)の危険性を強調し「一般の人が原発反対の声を上げないとこの運動は成功しない」と述べた。

 呼び掛け人の約50人には弁護士や医師、広島の被爆者たちが名を連ねている。「ヒロシマとフクシマをつなごう」をスローガンに掲げた初の集会には、福島県など全国から約600人の労組関係者や学生が参加した。(中島大)


原発被災者の苦悩思い連帯 広島、500人が集い

 福島原発事故を受け「さようなら原発1000万人アクション」と題した集いが5日、広島市中区のハノーバー庭園と原爆ドーム周辺であった。同市で開かれている原水爆禁止世界大会の出席者約500人が参加し、脱原発をアピールした。

 同大会実行委員会が主催。原水禁広島県協議会の佐古正明代表委員らがあいさつ。福島県平和フォーラムの原利正事務局長は、原発事故によって生活を奪われた住民の苦悩を紹介。「広島と福島は共通して核被害を受けた。原子力の平和利用は欺瞞(ぎまん)に満ちており、福島から原発をなくす運動を広げたい」と訴えた。

 続いて、原爆ドームに移動。蛍光リングを手首に巻いて全員が手をつないでドームを囲み、「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ヒバクシャ、さようなら原発」などと唱和した。 (里田明美、滝尾明日香)

(2011年8月6日朝刊掲載)

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