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連載・特集

びんごの70年 因島空襲 <2> 惨禍 地獄の光景 今も鮮明に

 防空壕(ごう)を掘った勤労学徒たちの集合写真。白い歯をのぞかせる若者もいる。撮影日は「昭和19年12月8日」。その7カ月半後の1945年7月28日、島は2度目の空襲で一変する。

 「地獄のようでした」。尾道市因島田熊町の山下松栄さん(86)は、自分たちが掘った同市因島土生町の防空壕の跡に立ち、つぶやいた。そこはかつて、日立造船因島工場の敷地内だった。

鳴り響く警報音

 70年前のあの日も、土生高等女学校3年だった山下さんは学徒動員で因島工場にいた。

 未明から繰り返される空襲警報と警戒警報。「バリバリバリ」。午前11時45分すぎ、機銃掃射の音が響いた。近くにいた20人ほどで工場内の防空壕に逃げ込み、外に目を向けると、岸壁に停泊していた貨物船が一瞬で猛火に包まれた。ナチス・ドイツのヒトラーをもじって名付けられた日寅(ひとら)丸だった。「生きた心地がしなかった」

 攻撃が収まった後、上司の命令で工場近くの因島病院に行った。休む間もなく担架で負傷者が運ばれてきた。記録を取ろうとしたが、「あまりの惨状に頭が真っ白になった」。気が付くと、その場を離れていた。

夜まで遺体搬出

 「100人くらい亡くなった」。元日立造船の社員で、当時、勤労課で犠牲者の社葬責任者を務めた三浦勉さん(97)=倉敷市=は記憶を手繰る。工場の門に集められた遺体を近くの善行寺に運び、棺おけに入れていった。

 「きれいにする間もなく、血がにじんだままの人もいた」。火葬するために山の中腹まで運ぶ作業が当日の夜10時すぎまで続いた。

 翌日、工場の被害をまとめたリストを手に、一時的に大阪から奈良に移っていた本社に向かった。船上から島を見ると、遺体を荼毘(だび)に付す煙が立ち上っていた。「戦争とはこんなにもむごいものか」。あらためて思った。

 夏になると、山下さんは、あの光景を思い出して胸が痛くなる。「70年の節目の年。最後の機会かもしれない。空襲が私たちに残した傷痕を分かってほしい」。今月17日、地元の因島高の平和学習に出席し、生徒たちに記憶をつないだ。若者を前に語るのは、初めてだった。(新山京子)

(2015年7月22日朝刊掲載)

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