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社説・コラム

『論』 原爆と海軍陸戦隊 その「任務」繰り返すまい

■論説主幹・佐田尾信作

 「ヒロシマの歌」という短い物語がある。原爆投下直後の広島に呉から救援に入った水兵が、瀕死(ひんし)の母親から赤ん坊を預かり通り掛かった人に託す。その後、ラジオの尋ね人番組が縁で16歳の娘に育った赤ん坊と再会し、あの日のことを伝えると、娘は笑顔で「あたし、お母さんに似てますか」。その強さに男の方が涙ぐむ―。

 執筆した児童文学者の故今西祐行さんは学徒出陣組である。あの日の翌日、自身も呉から広島へ救援に入って被爆した。実は筆者の亡き父も同じ日に同じ命令を受けた一兵卒である。感慨を持って今月出た新装版で読み直した。

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 父は今西さんより四つ下で、生きていれば88歳だ。出雲市内の山村の三男坊は1944年10月に海軍を志願して大竹海兵団に入団。翌年6月、機銃射手として呉鎮守府特別陸戦隊23大隊に動員され、呉市川原石の山中で訓練中の8月6日朝、きのこ雲を西方に見る。

 翌日、軍用列車と徒歩行軍で広島駅付近まで入り、任務で同駅の復旧作業に就いた。ちぎれた足が入ったままの地下足袋や時計、校章などが構内に散乱し、すさまじい様相を呈していたという。  生前に一通りの話は聞いていた。しかし所属していた部隊全体のことには思いが及ばず、実家の遺品の中から被爆者健康手帳の申請に伴う書類や手紙を見つけ、その手掛かりを知る。恥ずかしながら、ごく最近のことである。

 手帳を申請する父に「被爆の証人を見つけてあげるのが遅くなって申し訳ない」と手紙をくれたのが、福山市の八杉康夫さん(87)だった。戦艦大和沖縄特攻作戦の生き残りとして証言を続ける八杉さんは、大和沈没を固く口止めされ23大隊に配属されたという。

 父がいた海軍陸戦隊は、明治初頭の佐賀の乱(1874年)に出動した海兵隊が起源だ。すぐ陸戦隊と改称し、3年後には西南戦争の鎮圧に向かう。太平洋戦争では鎮守府ごとに編成されて南方戦線や沖縄などに送られ、玉砕した部隊も多々あった。そして「本土決戦」に備える結末に至った。

 だが、約1400人もいたという23大隊は急ごしらえで、ろくな武器はない。「1カ月ほどしか訓練を受けていない15歳から19歳までの志願兵ばかりでした」。船に乗ったことのない「水兵」の集団であり、歴戦の八杉さんにしてみれば頼りない限りだ。父はそんな新兵の一人だったのだろう。

 八杉さんもまた焦土の広島に向かい、市中の偵察を命じられた。戦後は23大隊の戦友会「川原石会」の世話をし、1993年に27人の証言集「残照の川原石」を編む。元中国放送プロデューサーの田島明朗さん(79)がこれを知って取材に歩き、ラジオ番組「海軍陸戦隊川原石部隊」を作った。

 ともに貴重な証言の記録である。というのも呉と原爆に関する公の資料には、23大隊の記述がほとんど見当たらないからだ。

 なぜだろう。一つには軍港から離れた山中に秘匿され、わずか2カ月で解散したためではないか。本土決戦部隊とあれば、終戦後、占領軍の尋問を予想して書類も焼いたに違いない。全国各地に復員した隊員の多くは、偏見を恐れてか被爆体験を明かさず、援護策も知らなかった可能性がある。

 「帰ってからたくさん死んどるぜ。『栄養失調』で片付けられた者もおるに違いない」。田島さんが聞いた一下士官の証言である。阿鼻(あび)叫喚の広島へ同胞の救援に駆け付けながら、その後遺症であることも自覚せず急逝した隊員がいたかと思うと、胸が詰まる。

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 「専守防衛」を旨とする戦後の自衛隊では陸戦隊は復活していない。しかし、離島奪還作戦を目的とした陸上自衛隊の水陸機動団は2年後にも発足する。今は個別的自衛権の枠内にあるが、集団的自衛権が行使された将来、戦前の陸戦隊のような性格を帯びることはないと言い切れるだろうか。

 八杉さんは「残照の川原石」の副題を「戦わざる陸戦隊の体験記」と記す。敵に銃弾の一発も浴びせることなく敗戦を迎えたが、それを悔しがるような証言が一つもないことにほっとする。父のいた広島救援部隊をいつまでも「最後の陸戦隊」と呼びたい。

(2015年7月23日朝刊掲載)

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