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連載・特集

びんごの70年 因島空襲 <3> 住民の犠牲 残された家族に深い傷

 「この傷を見ると姉さんを思い出すよ」。尾道市因島三庄町、山内勝さん(83)の自宅の梁(はり)には、約20センチにわたって70年前の空襲の爪痕が残る。1945年7月28日の因島空襲では、標的とされた日立造船の2工場の一つ、三庄工場の周辺の民家にも爆弾が落とされ、住民が犠牲になった。

 三庄国民学校2年で13歳だった山内さんは、学徒動員先の三庄工場から自宅に帰る途中で空襲に遭った。空襲警報や警戒警報の発表と解除が繰り返される中、山内さんたちの作業は午前中で打ち切られたという。

町が巻き添えに

 山に掘られた防空壕(ごう)に逃げ込んだ。「ドーン」。その山に配備されていた対空高射砲が、戦闘機と激しく撃ち合う音を聞いた。空襲が収まり、自宅に急いだ。裏の空き地に爆弾が落ち、屋根の一部を残して家は全壊していた。「砲台があったから、町が巻き添えになった」。今、そう思う。

 山内さんには4歳年上の姉、初子さんがいた。当日は体調不良で学徒動員を休み、自宅にいた。たんすと机の間に身を隠して一命を取り留めたが、胸を圧迫されたことで体調が悪化。1年半寝込んだ末、終戦直後に再建された自宅で、21歳の若さで亡くなった。

母子6人の悲劇

 同じ地区に住んでいた大田しどりさん(77)=奈良市=は防空壕に避難し助かった。しかし、隣家に爆弾が直撃し、爆風で自宅が全壊した。隣家では沖縄県から疎開してきた母子6人が亡くなった。「がれきで生き埋めになった。別の場所にいて生き残ったおばあさんが泣きじゃくっていた」

 母子は、膨大な民間人の犠牲が出た沖縄戦から逃れ、因島に暮らす祖母を頼っていた。10歳の女の子が5人の子どもの最年長だった。地域住民の記憶には、この母子の死が深く刻まれている。だが、小学校の名簿などの記録はなく、祖母の消息も不明だ。「仲宗根」という名字しか分からない。

 因島空襲を研究する著述業青木忠さん(70)=尾道市因島椋浦町=によると、当日に工場外で空襲に遭い、亡くなった住民は、この母子を含め十数人という。

 今、町は姿を変え、被害を知る住民もほとんどいなくなった。「家族を奪われ、苦しみの中で生きてきた人がいる。戦争が島に何をもたらしたのか知ってほしい」。山内さんは梁の傷を見詰めた。(新山京子)

(2015年7月23日朝刊掲載)

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