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戦時の学びや 日誌克明に 来襲備え高射砲設置/燃料不足で松脂採取 福山市沼隈の能登原小 42・45年度分を保存

 福山市沼隈町の能登原小に、太平洋戦争の開戦翌年の1942年度と、終戦を迎えた45年度の学校日誌が残っている。米軍の来襲に備える高射砲設置や、戦闘機用燃料が不足する状況下の松脂(まつやに)の採取などの記述がある。戦争と隣り合わせにあった学びやの様子が伝わる。(衣川圭)

 日誌は、当時の能登原国民学校の児童の出席状況や日々の出来事を1日1ページに書き留めている。42年度の日誌は縦23センチ、横16センチで「遺骨凱旋(がいせん)出迎」「軍人援護強化運動」などの言葉がたびたび出てくる。

 42年9月以降、連日のように登場するのは学校を宿営地にして、沼隈町と鞆町の境の海後山山頂近くに高射砲を設置したとみられる部隊の記述だ。9月27日「高射砲隊先発隊到着」▽同30日「広島高射砲隊宿営」▽10月8日「高射砲射撃演習見学」―。43年3月にかけ、隊が同校での宿営、帰隊を繰り返したことが分かる。

 45年度の日誌はB5判。「空襲警報発令ニツキ全児帰宅」「松脂採集」など、敗戦が迫る中での児童の動きを記す。8月6日の広島への原爆投下、同8日の福山空襲については書かれていない。終戦の同15日は、午前中に開墾作業をしたとあり「大東亜戦終結ノ詔書渙発(かんぱつ)セラル」と大きな文字で記録している。9月には「防空壕(ごう)撤収作業」との記述がある。

 現在は学校教育法の施行規則で学校日誌の保存期間は5年とされている。元教員で沼隈郷土文化研究友の会の上田靖士事務局長(沼隈町)は「戦時中の日誌が残っている例は少ない。戦時下や終戦直後の学校の様子を垣間見ることのできる貴重な資料だ」と話す。

 能登原小の松岡智浩校長は「日誌が廃棄を逃れた経緯は分からない。行間に子どもが厳しい状況下で勉強していた様子がにじんでいる」と話している。

(2015年7月26日朝刊掲載)

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