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連載・特集

ヒロシマ70年 第2部 私も「ヒバクシャ」 <1> 被爆体験伝承者・峯岡紀子さん=広島市安佐南区 

人生背負う重み 胸に

 原爆も戦争も体験していない世代が、被爆者の記憶に寄り添い、核兵器廃絶と恒久平和を実現するためのエンジンになろうとしている。通底するキーワードは米国の平和活動家、故バーバラ・レイノルズが繰り返し語ったという「私もまた被爆者です」。広島市が養成した被爆体験伝承者、被爆2世…。被爆70年の夏、その継承と発信の取り組みを追った。

 「『今日帰ろう』とせがまなければ、お母さんは原爆に遭わなかった。今も心の重荷になっているそうです」。18日、原爆資料館(広島市中区)であった被爆体験の講話会。20人の聴衆に、安佐南区の主婦峯岡紀子さん(56)が語り掛けた。

 被爆者の老いが進む中、他者による継承と発信を図るため、広島市が2012年度に養成を始めた「被爆体験伝承者」の1期生。爆心地から1キロの広瀬北町(現中区)にあった自宅で被爆した寺本貴司さん(80)=廿日市市=の記憶を3年かけて受け継ぎ、この4月に活動を始めた。

募る自責の念

 1945年8月の初め。10歳だった寺本さんは集団疎開先の現在の三次市の寺にいた。6日までの滞在を勧めた母親に「帰ろう」と譲らず、4日に戻った。2日後の原爆投下で母親は家の下敷きになり、15日に息を引き取った。生き延びた寺本さんは、自責の念から逃れられない。

 峯岡さんはそれを「心の重荷」と表現した。半年をかけて推敲(すいこう)した原稿は約1万字。頭に入れ、40分の講話で一切見ない。

 被爆者と向き合う契機になったのは01年。脳のけいれん発作を起こし、半日間意識不明になった。生死の境をさまよった体験が、被爆2世の自分に何ができるかを考えさせてくれた。09年に資料館などを案内するピースボランティアとなり、旅行者たちに原爆の非人道性を伝えてきた。

 それでも、いざ伝承者の研修が始まると「他者の人生。中途半端な気持ちでは受け止められない」との思いを強くした。相手が寺本さんに決まって以降、ほぼ毎月会い、語られる言葉をメモした。集団疎開先にも同行。当時を知る住職から話を聞き、体験を追った。

 「いろんな角度から実態に迫りたい」との思いを募らせ、臨時救護所となった第一国民学校(現段原中、南区)で負傷者の手当てをした自らの母親豊子さん(84)、入市被爆した義母(79)の記憶を聞き直しもした。

コピーでなく

 そんな峯岡さんを寺本さんはこう評価する。「単なる私のコピーではなく、自ら消化した平和への願いが語られるから説得力がある。私に全力で向き合ってくれたから、他の被爆者の悲しみにも寄り添えたんじゃないか」

 この24日には、4度目の講話を終えた。回を重ね、向けられる聞き手の真剣なまなざしに、3人の被爆者の「人生を背負う重み」をますます感じている。

 そして講話は必ずこう締めくくる。「私たちに当時の体験はできないけど、想像はできます」。あの日奪われた命、狂わされた人生に思いをはせることこそが、二度と被爆者を生まぬ一歩―。被爆体験伝承者として、たどり着いた境地である。(樋口浩二)

(2015年7月28日朝刊掲載)

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