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社説・コラム

『潮流』 抜け落ちた記憶

■呉支社編集部長・林仁志

 時に同じ夢をみる。炎がうねり、夜空を焦がす。降り注ぐ火の粉はいくら払っても追いつかない。地も焼けているのだろう。足裏が熱い。呉市で生まれ育った母から空襲の記憶を何度も聞いた。幼い心に強烈な印象を残したようで、今でもうなされる。

 その夢について他人に話したことがある。1995年の夏。戦後50年の取材で出会った女性だった。当時70代後半。呉空襲の体験者であり、遺族である。一人息子を爆撃で失っていた。

 女性は「あなたの母さんがうらやましい」とつぶやいた。予期せぬ言葉に戸惑っていると「私には記憶がないのよ」。さらに「息子の最期が知りたいの」「聞かせてくれる人がいれば」「そうしたら夢で会えるかもしれない」と続けた。

 空襲は45年7月1日の夜に始まり、翌未明まで続いた。呉市中心部が標的になり、1800人を超える人が犠牲になった。夫を戦地に送り出し、5歳の長男と家にいた。警報にせかされ手を引いて逃げた。ただれた空、爆発音、焦げるにおい。防空壕(ごう)の近くまで駆けたのは覚えている。そこから記憶が抜け落ちている。

 気付いたとき、傍らの息子は息絶えていた。苦しんだに違いない。自分がしっかりしていれば救えたかもしれない―。罪の意識にさいなまれて戦後を生きた。

 女性の庭には、オシロイバナが咲いていた。種をまくわけではないのに、夏になると花をつける。わが子が黒く丸い種で遊んでいたのを思い出す。こぼれ種が芽吹いて育ち、年ごとに繰り返し咲くのだと信じたいという。亡き子を花に重ねる。そしてわびる。

 呉市民の戦争、空襲体験を聞き、呉・東広島版に掲載している。いずれもむごい記憶ばかりで胸が締めつけられる。その都度、薄暮に咲いた白い花が心に浮かぶ。そして思う。抜け落ちた記憶もまたむごいと。

(2015年7月28日朝刊掲載)

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