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学童疎開 刻んだ日記 親元離れた寂しさ・食糧難… 原爆投下時の広島も記録 大牟田さん出版

 広島市安佐北区白木町井原に1945年、呉市の国民学校から集団疎開した際の日記を、京都市北区の大牟田章さん(82)が自宅に保管していた。戦時下の食糧難、親元を離れた寂しさに加え、原爆投下時の様子も記録している。28日に自費出版する。広島市公文書館は「原爆投下時を伝える子どもの疎開日記が残っているのは珍しい」としている。(中川雅晴)

 大牟田さんは呉市の荒神町国民学校6年の時、同年6月9日から8月25日ごろまで、同町井原の養泉寺に集団疎開した。日記は、7月3日から8月13日までの42日間分。3歳上の兄で、後に広島平和文化センター(中区)理事長を務めた故大牟田稔さんから、疎開の実情を記すように勧める手紙が届いたのがきっかけという。

 わら半紙に、田植えやイモ植えの農作業、学徒隊による道路修理、木銃の軍事教練など日々の感想を力強い字で書き留めた。

 8月6日の原爆投下時は、寺の裏山に竹を切りに行く途中だったという。「強烈な光が『ピカッ』と光った。しばらくするとドーンドドド…といふ爆音がものすごく響いて来た」「遙か向ふの山の方から驚く程の煙が立ちのぼってゐる。その煙は赤みを帯びてゐる」と記した。大牟田さんは「詳しいことは分からなかったが、大変な事態だと思った」と振り返る。

 被爆70年を迎える今、安全保障関連法案の成立への動きに平和への思いが薄れていると危機感を募らせている。年を重ね、体力の衰えを感じる中、多くの人に当時の様子を伝えようと出版を決めた。中国新聞社の記者として原爆小頭症患者の実態報道などに取り組んだ稔さんも生前「貴重な資料。早く公表した方がいい」と求めたという。

 「ぼくの 広島・井原村 学童疎開日記」と題し、500冊印刷。B5判、81ページで千円(税抜き)。当時の日記をコピーし、語句の解説も付けた。井原小、地元の郷土史研究会などに100冊を贈る。

 大牟田さんは「疎開先で親に会えない寂しさを抱え、死のむごたらしさも知らぬまま、国のために勇ましく死ぬことを教えられた。戦時中を生き抜いた子どもの思いを知り、平和について考える契機にしてほしい」と話している。

(2015年7月28日朝刊掲載)

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