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連載・特集

ヒロシマ70年 第2部 私も「ヒバクシャ」

 原爆の惨禍と被爆者の平和への願いを語り継ぐため、広島市が2012年度に養成を始めた被爆体験伝承者。1期生のうち3年の研修を終えた50人が活動している。被爆者と対話を重ねる2、3期生に続き、この夏には、4期生が研修に入った。なぜ被爆者の人生を背負おうと考えたのか。3人の決意を紹介する。(樋口浩二、高本友子)

英語で伝える

「原爆は間違い」 感想引き出す

 米国、スペイン、ドイツ…。24日、原爆資料館(中区)であった被爆体験伝承者の講話会には8カ国の20人が来場した。語り始めたのは伝承者の山岡美知子さん(64)=南区。40分間、被爆の実態を示すデータと、被爆者である母親、上田清子さん(90)=江田島市=から受け継いだ記憶を英語で伝えた。

 2008年に原爆ドーム(中区)前で被爆の実態を伝えるボランティアを始めた山岡さん。核兵器の廃絶には海外の市民に一人でも多く理解してもらう必要があると思い、これまで90カ国1万人以上の外国人にガイドをした。「質問攻めで成長できた」。ラジオの英会話講座にも励み、始めるまで、ほぼ話せなかったという英語力は向上した。

 「外国人は『なぜ』を追求する傾向にある」という経験則も得た。文献などでデータや史実を学び、図解や写真付きの資料は当初のA4判、10枚から50枚へ増えた。ある時、原爆投下を正当化する向きが根強い米国からの訪問者が「論理的な説明でよく分かった。私は間違っていた」と感想を語ったという。

 事実を重ねる意義を痛感し、伝承者としての講話でも、被爆を科学的に示すデータをふんだんに使う。「原爆は、移動する『エノラ・ゲイ』号から爆心地の約4キロ手前の上空で投下され、43秒後、爆心地の上空600メートルで爆発しました」「原爆のエネルギーは50%が爆風、35%が熱線、10%が残留放射線、5%が初期放射線」…。投下をめぐる米国の思惑なども史実から浮き彫りにする。前半20分をそんな解説に割く。

 昨年9月には英語の個人レッスンを受け始め、さらに流ちょうな語りを目指す。「被爆者の平和の願いを、もっと心に届けたい。悲劇を繰り返さないよう、少しでも貢献したいんです」

東京から通う

記憶の風化が心配 首都圏でも語る

 原爆資料館で19日にあった被爆体験伝承者の講話会。「放射線の被害に、今も多くの人が苦しんでいるのです」。米国が投下した原爆の放射線障害が今も被爆者と家族を苦しめている実態を語ったのは、東京都杉並区の会社員、楢原泰一さん(39)だ。「ヒロシマと東京を結ぶ懸け橋になりたい」と4月から月1、2回、講話を担当。首都圏でも活動を広げている。

 東京で生まれ育った。ヒロシマとの出合いは20年前の大学1年の時だ。サークルの研修で原爆の日に合わせて広島市を訪れ、原爆で両親を亡くした60歳代の男性の体験談を聞いた。「核は戦争の抑止力」という考えが一変したという。「核がある限り、世界に平和は訪れない」と。

 「被爆者の体験を少しでも後世に伝えてください」という男性の思いを重く受け止め、以来、毎年8月6日に広島を訪ねてきた。2009年には資料館と平和記念公園を案内するピースボランティアに。伝承者研修に申し込み、爆心地から2・8キロの自宅で被爆した岡田恵美子さん(78)=東区=の体験を受け継いだ。

 伝承者として活動する50人のうち東京都在住は1人だけ。交通費の大半は自己負担だが「遠くから通うのがきついと思ったことは一度もない」と言う。ただ、被爆の記憶の風化は、被爆地の外で特に深刻だと感じている。「東京の知人には8月6日が何の日か知らない人もいた」

 被爆体験伝承者として活動を開始後、東京都国立市が開いた被爆体験を聞く会と、埼玉県富士見市であった市民有志の平和イベントの計2回招かれ、語った。「原爆の悲惨さに触れれば、核のない世界こそ平和だと思う人が増えるはず」。そう信じ、講話の場を一層、広げるつもりだ。

大学生が挑む

3世の使命感 悩みながら一歩ずつ

 被爆体験伝承者を目指す研修の3期生、広島修道大3年の沖公太さん(21)=南区=は、被爆者から直接証言を聞ける「最後の世代」と感じている。壮絶な体験を語る難しさ、同世代とのギャップ…。葛藤の中で「誰かがやらなければ」という使命感に突き動かされている。

 伝承者に応募したのは2014年。被爆者の祖母の死がきっかけだった。「覚えていない」と体験を話したがらない祖母に進んで原爆の話を聞かなかったが、原爆死没者名簿に名前が記帳されたと知り、被爆3世の実感が湧いた。伝承者の年齢層が高いという報道も後押しになった。

 伝承するのは3人の被爆者の体験だ。その1人、竹岡智佐子さん(87)=安佐南区=は己斐上町(現西区)で被爆した。爆心地から近い基町(現中区)で働いていた母を捜しに行った時に見た川に浮かぶ死体、赤ちゃんを抱いて息絶えていた母親…。壮絶な記憶を初めて聞いた時、沖さんは涙を流したという。今、3人と個別に対話を重ね、その半生や平和への願いを聞き取っている。

 ただ大学の同級生に伝承者の研修を受けていると告げると、「なんで、おまえがやらにゃいけんの」と言われたという。「なら、やってくれるのか」と返し、会話は終わった。

 伝承者を志す自分が特別だとは思わないが「周囲から色眼鏡で見られるかも」と、進んで研修の話はしていない。「戦争が今、起こらない保証はない。原爆は、誰もが関係のある問題だと、聞き手を引き付けられる語りをしたい」。悩みながら、継承という難題に向き合っている。

(2015年7月28日朝刊掲載)

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