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連載・特集

ヒロシマ70年 第2部 私も「ヒバクシャ」 <2> 原爆資料館学芸員・高橋佳代さん=広島県海田町

遺品の思い 伝えたい

 展示ケースに4人の遺品が並ぶ。原爆資料館(広島市中区)東館で開催中の収蔵資料展。ぼろぼろに破れたブラウスは、おしゃれが好きな17歳の女性が着ていた。遺影は被爆する1週間前に撮ったパーマをかけたばかりの1枚。その顔と体は、容赦なく焼かれた。「こんな形相をした私がいたら久夫ちゃん(弟)に嫁が来んようになる。家のために死なんといけん」。そう言い残し、女性は最期まで苦しみながら亡くなった―。

 「どの遺品にも、私たちと何ら変わりない人たちの『生』と『死』が詰まっている」。遺族の話を聞き取り、この展示を企画したのは学芸員の高橋佳代さん(32)=広島県海田町。「犠牲者や遺族の思いをどう伝えるべきか、いつも迷ってしまう」

 2008年から同館に勤める。学芸員7人のうちの1人。主に被爆資料の受け入れや保管を担う。もともと歴史が好きで、学芸員は憧れの職業だった。しかも「どうしてもここで働きたかった」と言う。

「今聞かないと」

 出身も海田町。被爆者の祖父や親戚の体験を聞いて育ち、原爆を知っているつもりだった。が、京都の私大に進み、史学を学べば学ぶほど、知らない自分が見えるように。もっと学ぼうと、学芸員の実習先に原爆資料館を望んだ。多忙を理由に断られても電話と手紙で頼み込み、約2週間、経験した。卒業後は、遺跡発掘現場でアルバイトをしながら、採用機会を待った。

 念願かなって7年。「未熟さを思い知ってばかり」と明かす。あの日を語るうちに目を赤くし、声を詰まらせる人。遺品について聞き取る約束をした後で「やっぱり、まだつらい」と断ってくる人…。時が流れても、消えるどころか深くなる遺族の痛みに接し、掛ける言葉を失う。傷を深くしなかったかと、不安が込み上げる。

 だが、それに勝るのが「今聞いておかないと」との思いだ。資料の寄贈者は04年度の137人をピークに減少。13年度は48人にとどまった。遺族の世代交代が進み、詳細が分からないケースも増えている。「被爆者や遺族、それに私たちが亡くなっても資料が生かされるよう、できる限りの記憶を後世に残したい」。その一心で、被爆者や遺族と向き合う。

実物重視で模索

 資料館は今、18年春の全面リニューアルに向け、展示の見直しが進む。被爆者が老いを深めるに連れ、被爆資料の重みは増すが、資料館が展示できるのは500点に満たない。収蔵は約2万点ある。「実物」重視の展示に切り替える方針を打ち出す中、原爆被害の「見せ方」をあらためて考えさせられる出来事もあった。被爆者の姿を再現したプラスチック人形の撤去に対する市民の反対運動だ。

 「人形の方がインパクトがある、伝わりやすい、との声があるのも事実。否定できない」。冷静にそう受け止める。「時代とともに、来館者の年齢層も価値観も変わる。最適な見せ方を常に模索し、変化を恐れず、挑戦し続けるしかない」

 4人の遺品を選んだ今回の収蔵資料展も、悩み尽くして形にした。説明文は、こう締めくくった。「四つの記憶が、どうかみなさまの心に遺(のこ)りますように」(田中美千子)

(2015年7月29日朝刊掲載)

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