×

連載・特集

生きて 児童文学作家 那須正幹さん(1942年~) <7> 帰郷

次姉に誘われ同人誌に

 勤めていた会社の異動方針に反発して退社。1967年、帰郷した
 当時、おやじが「龍門書道会」という書道塾を開いていた。生徒が300人ぐらい。僕が帰ったから、「おまえも手伝え」と。じゃけど、僕は左利きで、それまで習字は、学校以外では一切やったことがなかった。泥縄式もいいところ。新しく入った子どもに墨のすり方や筆の持ち方を教えたりしよったかな。

 当時、現代っ子は昔の子どもと違うという本がブームになった。ところが、書道塾の子どもと話してみると、そんなに昔と変わってないなと思って。僕の言葉で語っても、今の子どもに伝わると感じたね。それは、後の創作活動にも役立った。

 帰郷から1年余りたったころ、次姉から、同人誌「子どもの家」を発行していた「広島児童文学研究会」への入会を誘われる
 たまたま、次姉が同人誌で童話を書き始めて、「正ちゃんも来てみん」と言われた。どんな会って聞いたら、「女の人ばっかりの会よ」と言う。ほんなら入るわと。

 というのも、僕が東京におった時、サンテグジュペリの「星の王子さま」がブレークして。若い女の子が、それを読むのを横で見ながら通勤しよったから、童話の好きな女性は、みんなあの世代じゃろうと思って。不純な動機よね。

 ところが、行ってみたら…。当時、「子どもの家」は、山口勇子さん(2000年に83歳で死去)が主宰しておられた。入会する時、作品を持って行かんにゃあならんのよ。それで、「ヒバリになったもぐら」という、モグラが、ある朝目覚めてみるとヒバリになっとるという話を書いた。

 それを、みんなの前で朗読したら、シーンとしとるんよ。あまりの傑作に感動しとるんかなと思ったら、1人の女性が「この会は新しい児童文学を書くのよ」と。要するに、あんたのは古いと。古いも新しいも、こっちは知らんからね。その時、山口さんの家にあった、現代児童文学の名作といわれた「龍の子太郎」とか、5、6冊借りて帰った。それらは、僕が思っとった童話のイメージとは全然違った。だいたい、その時は、児童文学という言葉すら知らんかったけえね。

(2015年7月25日朝刊掲載)

年別アーカイブ