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社説・コラム

今を読む 広島花幻忌の会会員・竹原陽子 

原民喜 最後のスピーチ 私たちの継承が問われる

 広島で被爆した詩人原民喜が、自死の前年の1950年4月に最後の帰郷を果たし、市民に直接語りかけたスピーチの内容を最近知った。当時の新聞「夕刊中国」に掲載されたが、その後は全集などに収録されることなく、埋もれたままになっていた。

 それが雑誌「三田文学」のことしの夏季号で、全集未収録作品や新たに公開された書簡とともに公表されたのだ。安全保障関連法案が衆議院において強行採決される中で被爆70年を迎えねばならないこの夏、スピーチは民喜から私たちへ向けられた遺託のメッセージのように思われた。

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 50年4月、日本ペンクラブは広島で特別ミーティングを開き、会長川端康成をはじめ、会員約80人が来広する。中央公民館で「世界平和と文化大講演会」が開催され、1人5分の持ち時間で、民喜や阿部知二、石川達三、真杉静枝ら18人が登壇した。民喜は「原爆體驗(たいけん)以後」と題して語り、愛着をもっていた広島の戦前の風景に触れ、幟町で原爆にあったと言って、次のように続けた。

 その悲惨な有様は文字などではとてもあらわし切れるものではなく、体験者でないと判らぬものだった、その後東京で私が不思議に負傷しなかったのをみて「原爆なんて……」ととんでもないことをいう人にあい、そしてこのみじめさにあいながら戦争を欲するかのような口ぶりの人にあって憤まんを感じた

 民喜は、戦後住んだ東京で、被爆の体験者からしてみればあまりに軽いと思われる言葉をかけられたのであろう。憤りをあらわにしている。そして同じ体験をもつ広島市民に対し、こう訴えた。

 平和の運動が広島からおこるのは当然すぎることだ、私はその運動が根強く力強いもので、ねばり強いものであることをのぞんでいる 私は数少い原爆体験作家としてヒロシマの名誉のために今後とも大いに努力のムチを打ちつづけよう

 元来、繊細で神経質な性格であり、極めて寡黙であったといわれる民喜だが、ヒロシマを語るときには、極めて力強い決意表明のかたちによって表される。それは、原爆被災時に持っていた手帳に惨状を記録したときから始まっている。

 我ハ奇蹟的ニ無傷ナリシモ コハ今後生キノビテコノ有様ヲツタヘヨト天ノ命ナランカ  そうして天命に貫かれ、静謐(せいひつ)な文体で広島の原爆を描き出したのが小説「夏の花」だ。戦後日本文学の起点といえる名作である。

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 被爆70年とは、体験者が民喜と同じように、自らにむち打つ思いで生き、平和の運動に自らをささげ、またそれに続く人々の歩みが刻まれた歳月と思う。原爆資料館において遺品の数々が世界中から訪れる人たちに平和へ立ち返るよう訴え続けているように、原爆の実相を伝えてきた原爆文学もまた、定点から世界に呼びかけている。

 民喜が原爆被災の惨状を記録した通称「原爆被災時のノート」と呼ばれる手帳は、現在、峠三吉や栗原貞子の直筆資料とともに、市民団体「広島文学資料保全の会」と広島市によって、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産への登録運動が進む。この運動は、世界にその価値を訴えかける外向けの運動でありながら、内実、私たち自身がどのように受け継いでいくのかという、内的深化の問われるベクトルも併せ持つ。

 負の遺産に向き合うことは、楽なことではない。しかし、それでも人がつらい過去と向き合うのは、過去の甚大な犠牲が真実の道を教えてくれることをわかっているからであろう。

 民喜は、原爆体験を基にした作品をまとめて小説集「夏の花」を刊行した際、帯に自ら「明日の人類におくる記念の作品」と記した。「明日の人類」とは、被爆70年のいまを生きる私たちも含まれているが、その射程はもっと永い。多くの人とともに人類の遺産を受け継ぎ、次世代までつないでいきたい。先人がリレーしてきたバトンを、今落とすわけにいかない。

 76年福山市生まれ。ノートルダム清心女子大文学研究科日本語日本文学専攻博士前期課程修了。日本キリスト教文学会会員。「原民喜全詩集」(岩波文庫)収録の年譜を作成した。広島市中区在住。

(2015年7月28日朝刊掲載)

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