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社説・コラム

『論』 慰安婦の70年 日韓で再び対話の道を

■論説委員・高橋清子

 夏の日差しがのどかな田園に降り注いでいた。韓国・ソウルから1時間ほどバスに揺られ、「ナヌムの家」を訪れた。韓国語で分かち合いを意味する名の施設に元従軍慰安婦のおばあさん10人が共同で暮らす。戦時中、旧日本軍のいる戦地などに置かれた慰安所で兵士らの性の相手をさせられた過酷な経験を持つ。

 「国が違っても同じ人間のはずなのに。人間性を踏みにじられてしまった」。慰安所を転々としたという柳喜男(ユ・ヒナム)さん(86)は、私たち共同通信加盟社論説研究会のメンバーを見据え、時に日本語を交えながら問い掛けた。身内が同じ目に遭ったらどう考えるか、想像してほしいと。戦後は恥ずかしくて故郷に帰れず、隠れるように生きてきたと話した。

 取材に応じた元慰安婦たちは、そろって日本政府に対して正式な謝罪と賠償を求めた。旧満州(中国東北部)に連れて行かれたという姜日出(カン・イルチュル)さん(86)は「過ちを犯したのなら謝罪は大事でしょう。死んでも死にきれない」と怒りで唇を震わせた。

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 戦後70年。海を隔てた隣国には、つらい過去を癒やすどころか老いた体を押し、人としての名誉と尊厳の回復を訴える姿がある。日本政府によるこれまでの謝罪は、少なくとも目の前のおばあさんたちにとって謝罪とは映っていない。

 安倍晋三首相への視線は一様に厳しかった。過去の発言をたどっても先の大戦に関する歴史認識が歴代の首相と明らかに違うからだ。来月に出される戦後70年談話が、加害の反省を踏まえた内容になるのか、想像以上に注目されていた。

 慰安婦問題は被害者が名乗り出た1990年代初め、日韓間の政治課題となった。93年にいわゆる河野談話が発表される。宮沢喜一内閣の河野洋平官房長官が旧日本軍の関与と強制性を認めて謝罪し、韓国政府も評価した。自民、社会、さきがけ3党連立の村山政権下ではアジア女性基金が設立され、元慰安婦に償い金と首相のおわびの手紙を届ける事業が始まった。

 それがなぜこじれたのか。一つは戦後補償の問題である。日本政府は一貫して、国交正常化した65年の日韓基本条約に伴う請求権協定で決着済みとの立場だ。

 一方、韓国では基金による民間募金の償い金は国家の責任を認めた賠償ではないと支援団体が反発し、多くの元慰安婦が受け取りを拒む事態となった。民主化運動を経て、植民地支配の責任を日本により厳しく問い始めた世論の影響があろう。基金の趣旨を評価する声はあったが受け取ろうとした人が批判されるなど、韓国の側で不協和音を招きもした。政府は現在、慰安婦や韓国人被爆者らは請求権協定の対象外として被害者の納得できる措置を求めている。

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 こうした問題についての韓国側の見方を取材し、お金以前の問題として解決を阻むわだかまりがあると感じた。「被害事実を認めてほしい」「責任があいまいだ」「悪いという気持ちはあるか」といった根本的な問い掛けを何度も聞いた。日本に植民地支配という加害の側の自覚が薄れたと映っているのではないか。

 昨年8月以降、慰安婦問題そのものを否定する言説まで聞かれた。朝日新聞社が慰安婦問題に関する記事を日本人の虚偽証言を基にしていたと取り消したのがきっかけだ。自民党などでは河野談話の見直しを求める発言が強まった感もある。

 しかし政治家の言動はとりわけ隣国への影響が大きいことを忘れてはならない。日本国内では慰安婦問題が注目された当初から、閣僚を含む保守系の政治家が自由意思による売春だったなどと、軍の関与を否定する発言を公に繰り返し、韓国側の不信感を募らせてきた経緯がある。

 安倍首相は河野談話について「見直さない」と表明している。ただ、韓国側が評価してきた河野談話をことしになって検証した姿勢自体への疑問は強い。安倍政権が強制性を否定しているように見えると、韓国外務省幹部は憂慮していた。

 日本側で議論が尽くされていないのも確かだ。慰安婦への「軍の強制性」が大きな論点となってきた。強制の定義そのものや軍が設置や慰安婦の募集にどのくらい関わったのかなどで、さまざまな見方がある。いずれにしても植民地支配の下で辛苦を強いたことは揺るぎない。国の責任は免れるものではないと考える。

 肝に銘じるべきは女性の人権問題という視点である。単に日韓関係の懸案にとどまらず、国際的に注目されてきた。戦争下でいかに女性が性的な被害を受けやすいか。見て見ぬふりをしがちな課題であり、それゆえに他の国でも繰り返されてきたといえる。こうした慰安婦問題の本質を理解し、真正面にとらえる日本の政治家がどれだけいよう。

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 世論調査を見ると近年、日本人の韓国への印象が急に悪化している。確かに反日感情をあおるような報道などで韓国側に違和感を覚えることがある。しかし日本としての反省と踏みつけられた側の視点を理解する努力は欠かせない。

 解決策はあるのだろうか。国交正常化50年の節目でもある。安倍首相と朴槿恵(パク・クネ)大統領と初の首脳会談の開催をにらみ、水面下では慰安婦問題の協議が進められているようだ。民主党政権時代にも日韓の間で解決策の糸口が示されており、和解への入り口に立てないことはない。  首相も慰安婦は重大な人権問題であることは認めている。ならば形ばかりの河野談話の継承ではなく、自分の言葉で反省と謝罪のメッセージを発信すべきである。

 慰安婦問題を検証してきた韓国・世宗大の朴裕河(パク・ユハ)教授は、こう指摘する。「いま日本政府が何か対応をしても双方に不満が残る」と。ならばなすべきことは何か。朴教授は慰安婦問題をめぐり、異なる意見を持つ日韓の研究者による協議の場を設け、公開して議論することを提案する。例えば「強制性」をめぐる認識で接点を見いだすために。

 近代史の実相を知らない世代が増えている。国や政治家に任せきりにしてはならない。あの時代に悲惨な体験をした人たちの生の言葉に、できる限り耳を傾け続けたい。

従軍慰安婦問題の経過

1991年 8月 韓国で元従軍慰安婦の金学順さんが名乗り出る
  93年 8月 河野談話の発表
  95年 7月 村山政権下でアジア女性基金が設立される
  96年 2月 国連人権委員会に慰安婦を「性奴隷」と表現した「クマラス
         ワミ報告」が提出される
2011年 8月 韓国の憲法裁判所が元慰安婦の賠償請求について韓国政府が
         措置を講じなかったのは違憲と判断
  11年12月 李明博大統領が日韓首脳会談で慰安婦問題の早期解決を要求
  13年 3月 朴槿恵大統領が演説で「責任ある行動」を求める
  14年 3月 安倍晋三首相が国会で河野談話は見直さないと表明
      6月 河野談話の検証結果を公表
     10月 日本政府がクマラスワミ報告について「事実に反する点があ
         る」と一部撤回を要求
  15年 6月 日韓国交正常化50年の式典にそれぞれ安倍氏と朴氏が出
         席。朴氏は「歴史問題という重荷を下ろそう」と述べる

河野談話のポイント

・慰安所の設置、管理および慰安婦の移送は、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した
・慰安婦の募集は、軍の要請を受けた業者が、甘言、強圧により、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くある
・(従軍慰安婦の)すべての方々に対し心からおわびと反省の気持ちを申し上げる
・われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい
・歴史研究、歴史教育を通じて永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意をあらためて表明する

アジア女性基金
 村山政権下の1995年7月、財団法人「女性のためのアジア平和国民基金」が設立された。慰安婦問題の道義的責任を認め、政府と国民が協力して償いの気持ちを表すため。フィリピン、韓国、台湾の元慰安婦285人に、首相のおわびの手紙と民間募金による「償い金」を届けた。オランダとインドネシアを加えた5カ国・地域に、政府の出資で医療・福祉事業も行った。事業にめどが付いたとして2007年3月に解散した。

(2015年7月30日朝刊掲載)

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