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連載・特集

ヒロシマ70年 第2部 私も「ヒバクシャ」 <3> 長崎大3年・西田千紗さん=長崎市

等身大で被爆地結ぶ

 生まれ育ったヒロシマ、進路に選んだナガサキ。「今では、どちらも私のふるさと」。長崎市の長崎大キャンパスそばの丘にある平和公園の光景もすっかり見慣れた。医学部3年の西田千紗さん(20)=同市=は広島市西区出身。二つの被爆地から、平和と核兵器廃絶の実現へ「等身大」の声を国内外に発してきた。

 5月16日。長崎市の田上富久市長が8月9日の平和祈念式典で読み上げる平和宣言の第1回起草委員会に西田さんも出席した。被爆者や有識者たち委員15人の中で最年少。安全保障関連法案に直接、言及すべき―。噴出した意見に、西田さんも「若者が安保法案を自分の問題と考えるように呼び掛けて」と重ねた。

「自分ごとだよ」

 原爆や戦争をどこか遠い国の問題と考えている同世代に対し「人ごとじゃなく、自分ごとだよと知ってほしかった」という。そもそも重責から断ろうと思った委員を引き受けたのも「若者の声を反映できるなら」と考えたから。同世代の代表として率直な意見を言えたとの手応えはある。

 広島市で過ごした中学、高校時代は、原爆や平和活動に触れながらも「心のモヤモヤ」を抱えていた。国際政治への関心から中学3年の時に中国新聞のジュニアライターに。被爆者や国内外の識者を取材し、核軍縮も学んだ。同級生の反応は「真面目だね」「意識高いよね」。自分が特別な存在と思われているようで嫌だったという。

 それでも、もう一つの被爆地に来たのは訳がある。2011年。福島第1原発事故のニュースで「もう子どもが産めない」と泣きながら話す福島県の少女の映像を見た。放射線への漠とした不安、心ない差別。かつての被爆者の姿と重なって見えた。正しい放射線の知識を学び、海外でも活躍できる医師になろうと、原爆後障害医療研究所のある長崎大医学部を志望した。

敷居の低さ実感

 入学後も多忙な講義やリポート提出の合間に、平和活動を続けている。「ナガサキ・ユース代表団」として2年連続で訪米。ことし5月は、核拡散防止条約(NPT)再検討会議が開かれていた米ニューヨークの国連本部で、各国の若者たちを前に英語で発表もした。

 現地での交流は刺激的だった。米国やイタリアの学生と核軍縮について議論すると、「みんな明るく楽しそう。日本ならお堅いイメージなのに」。活動の様子をインターネットで発信し、友人にも参加をどんどん呼び掛ける平和活動の敷居の低さを感じた。「日本の平和教育は世界の核情勢に触れない。若者は自分の問題と捉えにくいのでは」。そう分析する。

 大学に入った直後、新生活に追われ、活動を離れた時がある。そんな中、13年8月9日に初めて訪れた長崎市の平和祈念式典。「若い世代のみなさん」と呼び掛けた田上市長の平和宣言の一節に胸を打たれた。「あなたたちこそが未来なのです」―。

 今月11日、平和宣言の最後の起草委員会で、こだわって文案に残してもらった言葉がある。核なき世界の実現への行動を誓うくだりに「広島とともに」と。「私は若者の中で特別でもないし、被爆地を背負う運命の少女でもない」。けれど、被爆地を結ぶ懸け橋になりたいと思う。(和多正憲)

(2015年7月30日朝刊掲載)

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