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連載・特集

『生きて』 児童文学作家 那須正幹さん(1942年~) <10> 野心作

「戦争の危機 今も」伝える

 シリーズ化されていく「それいけズッコケ三人組」(1978年2月刊行)。その前後に、異色の作品を刊行する。その一つが「屋根裏の遠い旅」(75年2月刊行)だ
 初めて戦争児童文学に挑んだ作品じゃね。72年に「子どもの家」を退会し、次姉と「きょうだい」という同人誌を創刊した。その中で74年の終刊まで続けた連載「天井裏のあした」を読んだ、偕成社の編集者が「うちへください」と。少年2人が、太平洋戦争に勝利した後の日本の現代に迷い込む。要するにパラレルワールド(並行世界)を描いた。

 やっぱり、戦争は過去のことじゃないと、子どもたちに伝えたかったからね。非常に軍国主義的な日本に生まれたら、君たちはどうするかと。一種の問い掛けというか。過去の戦争を語った作品を読んで「あー、自分たちは平和で良かった」で終わってしまうことは多いから。今も、戦争の危機はあるんだよと。

 それと、巻頭に憲法9条の条文を入れとる。僕は、平和憲法を子どもの時に教えられて、すごくいい世の中になると思った。ところが、だんだん自衛隊ができたりして。何か違うなという疑問は、頭の片隅にはあった。一方で、自分自身が社会に責任のある世代になって、世の中が悪いと言うてばっかりはおれんぞと。何とか、子どもにその矛盾を伝えたいという気持ちもあったね。

 もう一作が、80年1月に刊行された「ぼくらは海へ」
 舟を造って旅立つ子どもの話を書きたいと思って。途中で子どもが死んだりして、当時は、暗いと批判されたね。少年たちがいかだで海にこぎだすラストも。ただ、僕はね、アンラッキーな結末とは思ってない。一種の巣立ちの象徴として書いたから。子どもたちも、死の暗示としては受け取ってなかったみたい。

 それと、たくさんの少年を登場させて、現代の子どもの群像を描きたいというのもあった。そうやっていろんな少年像を書いた経験が、後に、ヒロシマを題材にしたノンフィクション「折り鶴の子どもたち」を書く時に役立ったかも分からんね。

 まあ、あの頃は若くて、従来の児童文学にないものを書いてやろうと思ったね。ただ、世間に受け入れられるまでには時間がかかったなあ。

(2015年7月30日朝刊掲載)

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