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被爆直後 命懸けた医師がいた 救護所だった福屋を次女が訪問

■記者 石川昌義

 原爆投下後に救護所となった福屋百貨店(広島市中区)で、被爆者治療に尽くした医師がいた。原爆症とみられる症状で被爆後1カ月たたない9月3日に亡くなった吉田寛一医師=当時(51)。未知の放射線被害に手探りで立ち向かい、力尽きた父の面影を求め、次女村上直子さん(81)=廿日市市=が6日、被爆建物として今も残る福屋を訪ねた。

 広島随一の繁華街にあるデパート。市医師会長だった父が院長を務めた「臨時伝染病院」は、終戦直後の8月17日、市が設けた。「病院があったことを知っている人は、ここにはいないでしょう」。直子さんの横を買い物客が行き交う。

 被爆直後の広島では、吐血や下痢などの急性症状は赤痢とみられていた。八丁堀(中区)の自宅で妻ツマさん=当時(53)=と被爆しながら救護に追われていた父は、病院開設を市幹部に進言した。

 直子さんは「腕に茶褐色の斑点がありました」と当時の父の姿を記憶する。通勤中に広島駅付近で被爆した直子さんも、高熱と下痢に苦しんでいた。

 放射線の脅威は家族にも、自分にも迫る。「胸が苦しい。少し休もう」。父は8月末、福屋での治療を中断した。同じころ、病床のツマさんの容体が急変。「生きていたい」と言い残し、9月1日に亡くなった。父も後を追うように世を去った。  1946年に結婚した直子さんは、夫の転勤で広島を離れた。夫の退職後の79年に帰郷した直子さんは福屋を訪れ、変ぼうぶりに驚いた。歴史に埋もれる父の足跡を、手記にまとめる気持ちになったのは、70歳を過ぎたころだった。

 臨時病院があった2、3階は婦人服売り場となった。「廃虚のビルで体の衰弱を自覚しながら、父は頑張った。父が呼び寄せているようで、ここは落ち着く場所なんです」。直子さんは数珠を手に合掌した。

(2008年8月7日朝刊掲載)

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